愛シテル
本編8 〜May−後編 りく也44才 ユアン45才〜
居間に戻ると、ユアンが入り口で誰かと応対していた。チェーン・キイをしたままの細い隙間では、彼が邪魔で相手が見えない。
「勝手に出るな」
背中を軽く小突いて合図すると、彼の身体がずれた。チェーンは外さずに、りく也は外を確認した。
若い東洋人が立っている。見覚えのある顔だ。相手はりく也が前に出てくると、ぎこちなく笑った。
「由顕…か?」
りく也が確かめるように言うと、由顕――十一才離れた異母弟・祖父江由顕は、頷いた。
過ぎ行く五月のクィーンズは、例年になく寒かった。緯度の関係でニューヨークには梅雨というものがない。気候が不安定な春が終わった初夏は、本来なら過ごしやすい、美しい季節なのだ。しかし今年は週末のたびに雨模様で、未だにぐずぐずと春を引きずっている。そんなわけでアパートの向かいのカフェは、テラスしか空いていなかった。それでも汚い部屋よりはマシかと思い、りく也は由顕とテラス席に座った――りく也の名誉のために記しておくが、服や本の細細したものが所々に散乱しているだけで、人を入れられないほど汚いと言う訳ではない。むしろ大きな物は少なく、殺風景なくらいだった。
コーヒーを間に置いて、二人はしばらく黙っていた。りく也が日本を出たのが十八年前。当然ながら会うのもそれ以来になる。兄弟とは言え住んでいるところが違ったので、まともに向かい合うとなるといつだったか覚えていない。りく也は最初の、由顕は二人目の愛人の子供だったからだ。そして由顕の一才年下には本妻の息子・尋貴がいて、三人で祖父江財閥の後継を争っていた。尤も、熱心だったのは弟の母親達とその側近で、祖父と特に父親は年長でリーダーの資質に恵まれていたりく也を、早くから後継者として指名していた。
「大きくなったな?」
十一違いだから、由顕は三十四才のはずだ。いい大人に「大きくなった」は不適な言葉だが、高校に上がったばかりだった子供のイメージしか沸かないりく也には、それしか出てこない。案の定、由顕が、
「僕はもう三十四才ですよ」
と聞き覚えのない声で突っ込んだ。
「ああそうか、そんなになるのか。お互い、年食ったな?」
由顕が笑った。その笑顔に父の顔が重なる。彼はりく也の次に父親似だった。顔の造作から言えば双子の兄であるさく也とよりも、より兄弟として成立していた。
会話の糸口が見えて、二人はやっと話し始めた。
「よくここがわかったんだな?」
「あらゆる伝を頼って探したんだ。兄さんがアメリカと関わりが深いことを知っていたから、アメリカのどこかにいるとは思っていたけど」
「十八年もかけて?」
「いや、親父は探さなくていいって言っていた。ちょうど会社が大変だったし」
りく也が失踪してすぐ、祖父江コンツェルンに検察の捜査が入ったこと、父を始めとする各系列のトップが訴追され、遂には経営権を第三者に移さなければならなくなったことを、由顕は簡単に語った。その元となった内部告発の文書の出所が目の前にいるりく也だと、彼は知っているのだろうか?
「じゃあ、なんで今ごろ?」
「親父が倒れて、兄さんに会いたがっているんだ」
「倒れた?」
「心臓が弱っている。次に発作が起こったら、もう耐えられないだろうって」
そう言うと上着の内ポケットから封書を取り出して、りく也の前に差し出した。中身を見ると懐かしい日本語で、医学用語が羅列されている。主治医が書いた父の診断書だった。心筋がかなり弱っている。斜め読み程度でも病状の良くないことがわかった。それと脳梗塞を起こして右半身が麻痺、軽度の認知症も認められると記されている。認知症の意味がわからず由顕に尋ねると、痴呆のことだと教えられた。
封筒に元通りに入れて、由顕に戻した。
「兄さん?」
「会う気はない」
「どうして?」
「俺は祖父江りく也じゃないからだ」
「でも、兄さんにとっても父親だろう?」
少し由顕の語調が強くなった。りく也は気にしない。
「父親? 誰が?」
「親父だよ」
「俺には父親なんていない」
「兄さん」
「わざわざこんなところまで来て、無駄足だったな」
突き放す口調で表情も変えずカップに口をつけるりく也に、由顕はすぐに反論出来ないようだ。十一才も離れていると、常にりく也は大人で由顕は子供だった。祖父江の家でもりく也は特別視されていた。後継者として非の打ち所がなく、対抗馬の本妻や愛人側に付け入る隙を見せなかった。尋貴と由顕にとって、競うことが許されない雲の上の存在だったのだ。
すぐには言葉を継げなかった由顕は、しかしあきらめなかった。
「今、会わなかったら、もう会えないかも知れない。それでもいいの、兄さん? たった一人の父親なんだよ」
「だから、俺には父親はいないと言ってる」
「自分をこの世に作り出してくれた、育ててくれた人だ。兄さんがここで医者をしているのだって、親父がいなければ出来なかったことじゃないか」
由顕の頬が紅潮している。いつの間にこの弟はあの男を慕うようになったのだろう? 金と権力を得ることだけに価値を見出し、父親らしいことは何もしなかった男を、幼い弟達は畏怖していた。反抗期に荒れることも許されない。本宅でも別宅でも、『親子の会話』『一家団欒』は死語だった。
「いつだって兄さんのことを気にかけている。みんな、兄さんを探そうとしたけど、探さなくていいって言うんだ。あいつの好きにさせてやれって、ずっと我慢させてきたからって」
由顕の言葉を聞いても、りく也の心には何も響かなかった。父の容態を知っても、何も感じなかった。由顕がこうして彼の話をしなければ、忘れ去っていた存在だ。むしろ、思い出したことが不快でならなかった。封じた記憶が蘇る。母と弟から引き離された時のこと、感情を無くしたさく也、現実を見なくなりチューブに繋がれたまま逝った母親――何を今更。
「由顕、俺は別に頼んだわけじゃない。勝手に育てたがったのは祖父江家だ。」
「兄さん?!」
「俺を人でなしだと思うか? それを作ったのは、あの人なんだぞ」
「そんな」
「おまえ達がもっと早く生まれてくれば、俺はあの人に育てられることもなかった。違うな、あれを育てたとは言えない。金を出すだけ、あとは放ったらかしだったんだから」
さわやかなオフの朝が台無しだ。心臓外科レジデントのパトリシアとの程よい『運動』で夜を過ごし、後はのんびりと仕事の疲れをとるつもりだった。それをまずユアンが邪魔をし、そして予期せぬ来客・由顕が楽しくもない話を持ってくる。今日の空同様、どんよりと心の中は曇った。
「わかったらもう帰ってもいいかな? 客が来ているし、貴重なオフだから」
「兄さんはそれでいいのか? 後悔しないのか?」
「清々する」
りく也はそう言うと立ち上がった。十八年ぶりにあった弟は、兄の冷たい言葉に今度こそ反論出来なかった。由顕の前に祖父江りく也として存在していた時より、それでも精神的に丸くなった方だ。あの頃のりく也なら、もっとひどい恨みの言葉を吐いていたに違いない。それとも取り付く島もないくらいに話題を無視したか。
「さく也さんは会いに来てくれた。ここを教えてくれたのも、彼だ」