愛シテル
りく也は座ったままの由顕を見下ろした。 さく也の名前に鋭く反応する。物言いは冷たいながらも穏やかな目をしていた先程までと、明らかに違う。
「さく也に知らせたのか?」
由顕は一瞬、身構え、頷いた。
「彼にとっても父親だから、あたりまえだろう?」
りく也はともかく、さく也は父親を知らない。直接、会ったことはなく、生身の姿もみているかどうか怪しいところだ。そんなさく也にすら、有効なのか、父親と言う存在は? 血が繋がっているだけで、どうしていつまでも縛られなければならない? 断ち切りたいと願っても断ち切れない。断ち切ったと思っても錯覚に終わる。こうして封印した過去から、蘇ってくる。
りく也はしばらく黙って由顕を見つめていた。彼は目を逸らす。
「そうか、さく也は会いに行ったのか。でも俺には強要するな。まっぴらだ、父親も母親も」
そう吐き捨てると、テラスから歩道に足を踏み出した。
「兄さんは…、やっぱりお父さんを憎んでいるんだね」
りく也の背中に、由顕が言った。足が止まる。肩先で振り返り、
「違うな、忘れていないだけだ」
と答えると十八年ぶりに会った弟をそのままに、りく也はカフェを後にした。
部屋にはまだユアンが居座っていた。ソファの上の物を退かして、優雅に寝そべっている。見事だった金髪は加齢と共に白っぽくなり、鮮やかな青い瞳と相まって白いペルシャ猫のように見えた。りく也が戻ると起き上がり、スックと立ち上がるや前に歩み寄る。こう言うところは犬のようで、例えるならボロゾイと言ったところか。いずれにしても高級感がそこはかとなく匂っていた。
「さっきのは誰なんだ?!」
りく也は上目で一瞥し、手の甲で彼の胸を軽く押した。体がずれる。
「ねえ、誰なんだ? 日本語だったろう?」
しかし前進は遮られた、ユアンの長い右腕に。彼の目が真剣にりく也を見つめる。由顕がただの間柄ではないと思っているのだ。そしていつものようにやきもちを焼いている。それが容易に想像出来る表情に、りく也は思わず笑んだ。
「なに? 何がおかしいの?」
「おまえ、本当に物好きだな。こんなオヤジのことでやきもち焼くなんて」
「オヤジであろうと何であろうと、君は私の一番なんだから、いつだってやきもち焼くさ」
「また臆面もなく言いやがる」
腕を押して、前を開けた。進むりく也にユアンがまとわりつくようにして、由顕のことを聞いた。りく也はただ笑って答えてやらないものだから、一層、しつこくついて回る。
散らかった服や書籍、鬱陶しいユアン・グリフィス。一瞬の『過去』から『現在』にりく也は戻ったことを実感する。張り詰めた心は、ユアンのやきもちを含んだ物言いに和らいでいた。たまには役に立つもんだな…と、雑音と化した彼の声を聞きながらりく也は思った。
「とりあえず、今日はおまえに付き合ってやるよ。着替えてくる」
りく也の言葉にユアンは抱きつきかねない喜びを見せる。その脇をすり抜け、クローゼットのある部屋に向かった。
部屋の東側の窓からは向かいのカフェが見えた。先程まで座っていたテラスには、もう誰の姿もなかった。
二ヶ月後、祖父江崇之の死を伝える手紙が届けられた。『中原りく也』に対して遺産贈与することを記した遺言状の写しが同封されていたが、りく也は中身を確認しただけで、祖父江家の顧問弁護士宛に相続放棄のサインと共に送り返した。後日、兄のさく也もまた相続を放棄したと、由顕が知らせてきた。その手紙を細かく千切り、窓から撒く。
陽光を受けて、ひらひらと舞い落ちる白い紙片――母を散骨した時が思い出される。これも散骨なのだ。過去の全てを葬り去るための。
そうしてやっと、りく也は解放されたのだった。