愛シテル
ユアンは試しに手を伸ばしてみるが、助け起こしてやるという意思はリクヤから感じられない。しかたなくノロノロと身体を起こした。それから向かいのイスに座りなおし、入れてくれたコーヒーに口をつける。この一連の動作は無言の中で行われ、ユアンは少し寂しかった。
音楽で溢れているユアンの部屋とは違い、ここには外からの日常音以外ほとんど音がない。CDプレーヤーはあるがディスクは見当たらず、テレビはあるがコントローラーが行方不明なので、わざわざそばまで行って操作しなくてはならなかった。どれもこれも肝心なものは、散乱した服や書類や本の下になっている。だからこの部屋にくるとユアンは普段以上に饒舌になった。たわいも無いことをリクヤに向かって話し掛け、ちょっとしたB.G.M代わりといったところだ。そんなユアンの声にうるさげに反応するものの、リクヤはたいてい話しにつきあってくれた。
コーヒーを飲みながらの今日の話題は、ユアンのリクヤに対する「しつこさ」だった。
「私がしつこいのはね、いいお手本があるからなんだ」
「お手本?」
「そう、君のお兄さん。サクヤはエツと出会って結ばれるまで、アタック、アタック、アタックだったからね」
リクヤの兄のサクヤはもともとウィーンのオーケストラに所属するヴァイオリニストだった。ある年、アンサンブル・メンバーとして日本にコンサート活動で訪れた時、病気降板したピアニストの代役で出演したエツシと出会って恋をする。しかしエツシには当時片想いの相手がいて、サクヤの想いは受け入れられなかった。サクヤはオフになるとエツシに会いに行く。ウィーンから、ボストンから――もともとの生活圏でコンドミニアムも持っていた――、時には日帰りのような日程で。そして出会って二年余り、ついに想いが受け入れられたのだ。
「私達の状況と似ていないか?」
「どこが? だいたいエツはゲイだったんだろう? 俺はヘテロ。それに同じゲイでもサクヤとおまえは外見も性格も、まったく違う」
サクヤは今でもクールビューティーと称されるほど、冴えた美しさを持った東洋人である。二メートル近いユアンと違って高からず低からずの程よい身長、自分の感情を言葉にせずにいられないユアンと違って、口下手で時折垣間見せる感情表現が魅力的だった。
「あいつの恋は二年くらいで成就したけど、十何年経ってもおまえの恋は進展無しじゃねーか。どこが似てるんだ、どこが」
「十何年経っても、君は頑固で口が悪いね。急がないんだ、私は。恋愛は君の好きな数学や理科のように、かっちりとした答えがないもの。予定は未定で終わるし、予感は当たらないことも多い。受け入れられるか拒絶されるか、決まっていないってところがいいんだ」
ただしユアンのこの考えは、最近になってようやく確立されたものである。若い頃は、欲しいと思ったものは、物でも人でもすぐに手に入らないと気がすまなかった。リクヤのつれない心によって、十三年かけて育てられた『忍耐』が到達した境地なのである。
「奇特なヤツだ」
半ば陶酔しているユアンにそう言うと、リクヤは新聞に意識を戻した。
「君も恋をしてみたらいい。きっと気持ちがわかるよ」
「面倒くさい。しなくても死なない」
しかし彼はずっと恋をしている。十三年など比較にならないほど、長い時間をかけて。リクヤは否定しつづけているが、ユアンにはそれが『恋』以外の何ものにも見えなかった。決して成就することのない絶望的な片思いであり、自覚の無い恋だった。自覚が無いから一層面倒で、ユアンの恋の行く末は、実は決まっているのかも知れない。リクヤのいう通り、かなり自分は奇特だな…とその点は同調する。しかしあくまでも心の中で、だ。
「今日はいい天気だよ。こんな汚いところにくすぶっていないで、どこかへ出かけようじゃないか?」
「汚いは余計だ。せっかくの休みだからこそ、ゆっくりしたいんだよ。『誰』にも邪魔されず、『独り』でな」
おまえが邪魔だとリクヤの目が語る。ユアンは怯まない。こんなやりとり、二人の間では日常茶飯事だった。こういったコミュニケーションが、ユアンには楽しかった。たとえ邪険に扱われても。
「どんなにつれなくされても君を嫌いになれないなんて、私はマゾかな?」
独り言はリクヤには届かなかったようだ。彼は新聞をその場に置くと、「トイレ」と断って席を立った。
テーブルの上には鍵がそのまま。ユアンはその鍵を黙ってポケットに入れることは、結局出来なかった。彼の育ちの良さもあったが、やはりリクヤの納得のもと堂々と合鍵を作りたいと思うのだ。
リクヤがトイレから戻ったら、何と言おうと連れ出そう。ユアンは一昨日イギリスから戻ったばかりだが、また一ヵ月後にはヨーロッパに発たなくてはならない。勤務医で生活が不規則なリクヤと次はいつ会えるか――それも彼のオフに――わからないから、この機会を逃したくなかった。デート・コースは考えてある
ユアンが自分のプランに自身で頷いた時、ドアベルが鳴った。リクヤはまだ戻らない。また女性かも知れないと思いながら、代わりにユアンが応えた。
「えっと、どなた?」
まず覗き穴で、それからチェーンキイをしたまま、ドアの前の人物をユアンが確認する。来客は若い東洋人で、どことなくリクヤに似ていた。東洋人は誰もよく似て見分けがつかないので、どこまで似ているかは怪しいところだが。相手は驚いて、目を見開いている。
「英語、ワカリマスカ?」
とりあえず片言の日本語で話し掛けると、口元が綻んだ。
「わかります。ここはリクヤ・ナカハラの部屋だと聞いて来たのですが?」
流暢な英語だ。声もりく也に似ている。ユアンの日本語がわかったのだから、日本人だろう。
「ああ、そうだよ。今…」
とユアンが答えたところで、彼の目がユアンから後方に移った。振り返ると、リクヤが立っていた。
「勝手に出るな」
ユアンは下がるように言われ、リクヤと位置を代わった。
この若い日本人は誰だろう? それも男性だ。リクヤはストレートだから、まさか恋人ではないだろうが。彼を慕って来た可能性もある。一瞬の間にいくつもの考えがユアンの頭に浮かんだ。
「ヨシアキ…?」
リクヤの声音には驚きが含まれていた。若い日本人はその言葉に頷いた。