愛シテル
サード・エリアから医学生が都合よくりく也を呼んだ。あきらかに母親から落胆の表情が見てとれる。りく也とユアンが恋人同士だと、八才の子供の前で話す彼女が、何かを期待しているのは明白だ。一般の患者にまで、楽しい話題を提供してやるつもりなんか毛頭ないりく也は、挨拶もそこそこにその場を離れた。
『終わった後で会いに行ったのに、どこに雲隠れしていたんだい?』
アパートに戻ったのは翌日の午前七時前。留守番電話が点滅していて、十二件のメッセージが入っていた。
ユアンのミニ・コンサートの直前に呼ばれたサード・エリアでは、医学生に宛がわれた脱肛の患者が、いきなり心筋梗塞を起こして大騒ぎだった。それからインフルエンザを移されたシニア・レジデントの代わりに、そのまま勤務を延長。とてもコンサートを聴きに行く時間はなかった。終わってからユアンがりく也に会いにくるのはいつものことだが、ちょうどその時分、りく也はICUへ移す患者について行ってE.R.にはいなかったのだ。
メッセージの最初十件は、ユアンからの電話だった。
『今日のプログラム、気に入ってくれたかな? 君は音楽に疎いから毎年プログラムを考えるのが大変だ』
――悪かったな
どのエリアにいても、ピアノの音は聴こえてきた。マイクを通してあちこちのスピーカーから、流麗な曲が流れるのである。クラシックの難曲から子供の頃から慣れ親しんでいるキャロルまで。ユアンはどの曲をどんな気持ちで弾いたか、メッセージ八件に渡り語っていたが、曲の区別のつかないりく也は聞き流すだけだった。話の途中で録音時間が来て、あわててかけ直して続きを入れる様子は面白かった。
『出会ってから十度目の記念すべき誕生日だね。それを思うと感慨深かったよ』
――記念日とかイベントとか、女みたいなヤツだな
りく也のこの感覚は、やはり日本で生まれ育った故だろう。アメリカでは恋人同士、夫婦間の記念日は大切にされていて、時には離婚の理由にされるほど価値を認められている。
『今回は救急車の出入りも少なかったから、録音状態も悪くない。CDの出来が楽しみだ』
毎年、イブのコンサートはライブ録音されプレスされる。『Your birthday』と名づけられたそのアルバムは、今まで五作を数え、リリースされるやビル・ボードのクラシック部門に春先まで君臨した。
どのCDもシリアル・ナンバーの一番はもちろん、りく也の手元にある。特別仕様のパッケージのそれは封を切られないままだったが、何でもすぐに失くなる魔窟のようなリビングにあって、不思議と身の置き所が確保されていた――兄・さく也のCDと肩を並べて。そのことはユアンを喜ばせているようで、時々、嬉しげに見つめている。その様子が癪に障らないでもないが、音楽に罪はないから、毎回、素直に受け取り、その場所に並べるりく也であった。
『あまり働きすぎは良くないよ。君は少々ワーカー・ホリック気味だから。僕の言葉は聞かないことはわかっているけど。そこがまた良いところだ。愛してるよ。Happy birthday』
最後のメッセージは、一層に甘い声音でキザだった。女性、あるいはその手の男には、さぞかし魅力的に聞こえるだろう。しかしりく也は、何の感動もなかった。それにユアンには、モデルの恋人がいる。今ごろは多分、クリスマスの朝を二人で過ごしているに違いない。電話で済ませているのがいい証拠だ。相手のいない時は必ず、押しかけてくるので。
りく也を追いかけ回すわりには、相手が切れたことがなかった。それが不実とは思わないから、一生彼を――恋愛対象として――受け入れることなどないと、りく也は確信している。ユアンもいい加減、それに気がついて、とっとと諦めてくれればいいのに…。きっと友人としてなら上手くやっていける。「愛してる」と言う言葉は自分には重過ぎる――甘く優しい声音で告げられるたびに、りく也の心に影が過(よぎ)った。彼を「愛してる」と言い続け、死んで行った女=母の影。
次のメッセージが流れ、聞き逃したりく也はテープを巻き戻した。
あれから十何年も経っていると言うのに。
――まだ俺を縛るのか
自嘲の笑みで口元が歪んだ。
後の二件はマクレインからで、例によって患者の様態変化や、投薬指示の確認だった。返事の電話を入れてから、PCの電源を入れた。
メール・ボックスに数件入っている。その中でサクヤ・ナカハラの文字を見つけると、まずそれをクリックした。
『誕生日、おめでとう。寝んでいるかも知れないから、メールにした。六月に仕事でニューヨークに行く。忙しくなければ、会いに行ってもいいかな?』
双子の兄のさく也からだ。同じ日に十五分違いで生まれた。りく也の誕生日は彼の誕生日でもある。過った影は消え去り、兄の顔に変わった。ふんわりと、温かいものが胸に広がる。
時計を確認すると、七時を十分ほど過ぎていた。日本との時差は十四時間ほど、向うは午後九時を回ったくらいだろう。急がないと二十五日が終わってしまう。電話…と思ったが、クリスマス・コンサートか、もしくは加納悦嗣と出かけているかも知れない。
『誕生日、おめでとう。四十二才になってしまった。日本で言うところの厄年だけど、アメリカに居ても関係あるのかな? 六月の日程が決まったら教えてくれ。必ず空けるから。お互いにとって幸せな一年でありますように。愛を込めて』
文面を読み返して、〆の文を削った。これではユアンと一緒ではないか。
それでももう一度読み返した時、やはりその言葉は入れた。この世でたった一人の肉親。『愛』という言葉を贈る唯一の人間。愛を大盤振る舞いするユアンのそれとは違う。違う…とりく也は思っている。
「さ、風呂でも入るか」
メール・ボックスを閉じてバス・ルームに向かった。また数時間後にはマクレイン.だ。万年人手不足のE.R.では、スタッフ・ドクターと言えどレジデントばりにこき使われる。貴重なオフは睡眠に充てねばならない。セックスも最近はご無沙汰で、勇名を馳せた頃は遠い過去になってしまった。性欲よりも睡眠を優先するところに、りく也は寄る年波を感じないでもない。
蛇口を捻ってバスタブに湯が落ち始めると、りく也は思い出したようにPCの前に戻った。
インターネットを繋いで、日本の検索サイトを呼び出した。そして「オタク用語 ウケ」と打ち込む。昨夜、アパートに戻ったら調べようと思っていたことだ。検索にワードが引っ掛かって、いくつかのサイトが表示される。辞書と表記されたのを開けて、ア行に『ウケ』を見つけた。
『攻』の対義語。セックス(男同士)の際に挿入される側。つまり女役。
簡潔な説明のその一文を読んで、りく也がフリーズしたのは言うまでもない。