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愛シテル

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 ユアンのきっぱりした物言いに思わず興味を引かれて聞いたのに、ただの勘だと答えられて思わず英介は拍子抜けした。それは彼にも伝わったらしく、長い人差し指を立てて振り、英介の考えを否定する。
「勘をそう馬鹿にしたもんじゃないさ。僕たちは言わばマイノリティだから、同じ人種には鼻が利くんだよ。チャンスを逃したくないからね」
「でも、どう見てもリッ君はストレートだろう? 女性以外エスコートしているのを見たことがないけど?」
「女性はリクヤにとって性欲処理の相手でしかない」
 英介は手に持った缶コーヒーを落としそうになった。
「失礼、彼の恋愛の対象になりえないってことだよ」
 表現がストレート過ぎたと、育ちの良いユアンは思ったのか訂正した。
「身体は女性を求めても、心は違う。リクヤは確かに恋をしているけど、それは女性じゃないんだ」
「誰に恋をしてるって言うんだ?」
「それは内緒。ただ、その相手から目を反らせたい。だって自覚していない恋は、叶うはずなんてないんだから」
 英介はもう一度、中原りく也のことを思い出していた。さく也の弟で、ユアンがここまで執着しなければ気にも留めない存在だ。だから会った時の印象も、大して強いものではない。今さら思い出そうとしても、それ以上の事は浮かんで来なかった。
「僕はね、エースケ、彼と恋愛したいんだ。彼に相思相愛の素晴らしさを教えてあげたい。そのためには、どんな努力も惜しまないし、あきらめたくないんだ。どんなに邪険にされても僕は言い続けるよ。彼に『愛してる』ってね」 
 ユアンの表情は至極、優しかった。言葉は気恥ずかしくなるほどだったが、真摯で偽り無く聞こえる。まるでりく也が本当の恋愛を知らないかのように、英介には聞こえた。
「だからね、どんな些細なことでもリサーチしておきたいんだよ。リクヤとエツは絶対、好みも似ているはずなんだ。だって…」
と言ったところで、ユアンは口を閉じた。英介は先を促したが、彼は肩を竦めるだけで答えなかった。それから、中原りく也と言う人物の魅力について、また語り始めた。ロビーに出てきた時に、つまりは振り出しに戻ったと言うところだろう。
 英介は相槌を打つが、これも最初と同じで適当だった。そして意識は別のところに飛んでいる。
 引っかかっているのはユアンの「だって」の続きだ。何と言おうとしたのか、英介は彼のお喋りを右から左に聞き流しながら考える。自分にも心当たりがありそうな、そんな気分だった。しかし心当たりがあるほど英介はりく也を知らない。やっぱり友人の弟としての印象しかなかった。
 どれくらいか経って、悦嗣がロビーに出てきた。調律が終わったらしい。外の空気を吸ってくる言う彼を、ユアンが引き止める。ステージ上での話の続きをするつもりなのは明らかだ。
「エースケ、こいつに言ってやれ。いつまでもくだらないことばかり言ってないで、演奏に集中しろって。十年前みたいな無様な演奏のために、俺は調律してるんじゃないぞ」
 悦嗣はあからさまに辟易した表情を見せた。英介は彼のニュアンスもそのまま通訳するが、ユアンは意に関していないようだった。悦嗣は口元をへの字に曲げると、追い縋るユアンを足蹴にする勢いでその場を離れた。
「やっぱり彼とリクヤは似ているよ」
「だからってエツに惚れるんじゃないぞ。今度こそ、サクヤに愛想を尽かされるから」
 英介の言葉にユアンは極上の笑顔を浮かべた。
「彼らはよく似ているけど、エツにはそんな感情は持てない。サクヤを持っていかれたしね。それにリクヤの方がうんとチャーミングだもの」
 そこからまたユアンのりく也自慢が始まろうとするのを英介は止めて、悦嗣に言われる前にピアノに座って調子を確認しろと勧めた。彼はまだ話し足りないという表情を浮かべたが、英介が問答無用で先に立つと、渋々、後についてホールの中に入った。
 ステージ上にはオーケストラ用の椅子や譜面台がすっかり整えられていた。それらが放射状に広がる中央には、フルコンサートのピアノが威風堂々、静かに今日の主役を待っている。ユアンはあたりまえのようにピアノの前に座ると、八十八鍵の全てを使ってスケールをまず弾いた。それからスッと顎を上げ、演奏を始める。曲はベートーヴェンのソナタだ。今日、何曲か予定しているアンコールの一曲なのかも知れない。
 英介は客席からその演奏を聴く。十年前、こうしてやっぱりリハーサルの様子を見ていた。その時ユアンは悦嗣を調律師に指名した。英介は夏季休暇でウィーンから丁度帰国していて、今日同様、通訳として同伴した。ユアンは調律の腕より何より、恋敵として悦嗣のことを見るために指名したのだ。自分の前で弾いて見せろとすごい剣幕だったことを思い出す。
――エツはあの時、さく也のことをもう意識していたんだろうな
 さく也は悦嗣に恋をしていて、時間が許す限り追いかけていた。程度の差こそあれ、やっていることは今のユアンと変わりない。その一途さが可愛くて、少なからず英介も協力したことがあった。さく也は感情表現が下手で、言葉ではなく行動で示すしかなかったからだ。それは幼児期の複雑な家庭環境が影響しているのだと、英介はずい分後になって悦嗣から聞いた。
『だから滅多にないわがままは聞いてやりたくなる』
と悦嗣が言ったことを思い出す。
「あれ?」
 確か、似たようなことを誰かも言っていたな――英介は右手の人差し指をこめかみにあてた。


『さく也が望むことは、何でも叶えてやりたい。この世でたった二人きりの兄弟だから』


 あれはりく也の言葉だ。
 彼は兄がアメリカにいる間はコンサートがあればコンサートに行き、滞在期間中をボストンのコンドミニアムで一人で過ごすと聞けば、有給を取って出来るだけ一緒に過ごしているらしい。本当に仲の良い兄弟で、そのことを話した流れの中での言葉だったように思う。
「だって、同じ人間を愛しているんだから」
 英介の耳に今度はユアンの声が滑り込む。あの「だって」に続き、語られなかった言葉を伴って。
 中原兄弟の生い立ちはほとんど知らないが、両親や親族の話はまったく出てこないところを見ると、あまり良い思い出はないのだろう。だから尚更、絆が強いのかも知れない。
――だからって、その気持ちを恋に喩えるのはどうなんだ?
 ただ強い想いは確かにある。その想う心をユアンに向けさせるのは、さく也を落とせなかった以上に至難の業だと英介は思った――兄を見るりく也の眼差しは、とても大切で、とても尊いものを見るようだったから。
「まったく、難しい相手を好きになったもんだ」
「誰が誰を好きになったって?」
 スン…と煙草の微かな匂いがした。悦嗣が戻って、英介の隣に座る。
「禁煙したんじゃなかったっけ?」
 煙草を吸わないさく也の手前と高血圧症の兆しに、普段は禁煙している彼だが、仕事の後の一服はどうしても止められないらしい。
「そんなに一遍に止められるかよ」
「さく也に言いつけるぞ」
「あいつも知ってます」
作品名:愛シテル 作家名:紙森けい