愛シテル
本編3 〜August ユアン38才 りく也36才〜
毎年、八月中旬からの約一ヶ月間、宮城県仙台市では音楽祭が開催される。
オーケストラやアンサンブルのコンサート、オペラにリサイタル、アマチュア演奏家達の発表会といった演奏プログラムの他に、青少年の為の音楽講座や楽器のメンテナンスなど、その他の音楽に関連する事が催される点が特徴だ。日曜日には欅通りの遊歩道で、様々なジャンルのストリート・パフォーマンスが、歩行者を楽しませていた。
音楽祭は当初、地域振興を目的に始まったのだが、独自性豊かな演奏会プログラムと、音楽を地域ぐるみで楽しもうとする環境が高く評価され、今や一地方都市主催とは思えないほどに盛況となり、日本を代表する音楽祭へと成長した。
今回のメイン・ゲストは約十年ぶりのユアン・グリフィス。前回はショパン(国際コンクール)を獲った直後で、ショパンをプログラミングしたリサイタルと地元オーケストラとの共演でベートーヴェンの『皇帝』を演奏した。しかしベートーヴェン弾きとしての方が高名だったにも関わらず、精神的ダメージを負っていた彼の『皇帝』は、さんざんな出来で酷評された。今回招聘されるのにあたり、ユアン・グリフィスはぜひとも『皇帝』をと希望した。前回のリベンジといったところだろう。
彼と共演するのはこのために特別編成されたオーケストラ。その中には友人である曽和英介もチェロで参加している。
「ユアン、エツの邪魔するんじゃないよ。仕事出来ないだろう?」
英介はユアンに注意した。
そのコンサート当日、会場となる宮城県民会館のステージ上では、ユアン・グリフィス仕様にピアノの調律が始まっていた。リハーサルまでかなり時間があるのだが当のユアンがすでに入っていて、専属調律師・加納悦嗣の傍らに座り話かけている、相手が仕事中にもかかわらず。
そして話の内容はと言うと、音楽にも調律にもまったく関係のないものだった。加納悦嗣の親友兼通訳でもある英介は、彼と一緒にオケ・リハより早く会場入りしたのだが、通訳する内容が調律のことではないことに、そろそろキレそうになっていた。
「いや、エースケ、ぜひとも聞いておかなくちゃ。エツがいったいサクヤのどこに惹かれて、僕と争うようになったのかね」
「争うって…」
――それは、君の偏った見方だろーが
英介は馬鹿らしくなって、ため息をついた。
ユアン・グリフィスはただ今、片想い中だ。相手はニューヨークの医科大学付属病院で研修医をしている中原りく也。彼は加納悦嗣のパートナーのヴァイオリニスト・中原さく也の二卵性の双子の弟である。ユアンは最初、その兄の方に猛烈に片想いをしていて、結局実らなかった。今度は弟の方なのだが、これもまた実りそうにも無い。何しろりく也は正真正銘のヘテロで、相手に不自由したことないプレイボーイだったからだ。
「だからって何でエツに聞くんだい? さく也とリッ君じゃ全然、タイプが違うじゃないか?」
「サクヤとリクヤは似てないけれど、リクヤとエツはよく似ているだろう?」
「エツとリッ君?」
英介はりく也の事を思い出していた。彼とは数えるほどしか会ったことがない。会えば親しく話もするが、あくまでもさく也の弟と言う立場からは逸脱しなかったので、当り障りのない彼しか英介は知らなかった。悦嗣と共通するところと言えば、長身であることしかすぐには思い浮かばない。
「似てるかなぁ?」
「似ているさ。口の悪いところとか、口の悪いところとか、口の悪いところとか」
ユアンは強調して言った。
「会えば憎まれ口ばかりじゃないか」
「それだけ?」
「いや、もちろん、それだけじゃないけど。なんて言うのかな、雰囲気? とにかく似ているんだよ。だから、きっと恋人に対する好みも似ていると思うんだ」
「そうかなぁ。だからってさく也とユアンは似てないじゃないか。エツがさく也に惹かれた理由を聞いても、参考にならないよ?」
さく也とユアンではそれこそ共通するところがない。身長は20センチ近くも違うし、髪の色も瞳の色も、それから何と言っても性格がまるで違う。片やさく也は感情表現が下手だから、無口で無愛想・無表情の三無しに見られがちだった。此方のユアンはと言えば、社交的でお喋りで、その時々の感情を露にしなければ気がすまないタイプなのだ――どちらも英介評なのだが、当らずも遠からずだと思っている。
「似ているさ」
「その自信の根拠は?」
「好きな相手に一途なところ」
「またそれだけ?」
「大事なことだよ、エースケ。僕とサクヤは恋愛に対してスタンスもアプローチも一緒なんだから」
「アプローチ…ねぇ」
と英介が呟いたところで、フッと影がかかった。顔を上げると悦嗣が腕を組んで仁王立ちしている。
「うるさいぞ、おまえ達。お喋りしたいならロビーに行け。気が散るだろ」
自分の背後で話す二人に、とうとうキレたと言うところだろう。何しろ、仕事を始めてからユアンのお喋りは止むことがなく、悦嗣の手を再三再四、止めていたからだ。
それでとうとう二人は、ステージ上から追い出されてしまった。
『あいつはしつこくてうざいんだよ。愛してる、愛してるって、呪いの言葉かって言うんだ、まったく』
ロビーに出てからもユアンの話は切れることはなかった。英介は笑顔を貼り付けたまま適当に相槌を返し、中原りく也の言葉を思い出していた。あれは確か三年程前、ニューヨークでさく也がガーシュインのガラ・コンサートに参加した時。英介は復縁した妻の小夜子と再婚旅行で東海岸を訪れていて、弟のりく也も交えて食事をしたことがある。食事の最中に鳴った携帯電話に出るために席を外したりく也は、顔を顰めて戻ってきた。電話の相手はユアン・グリフィスだったらしく、開口一番、「あいつを何とかしろ」と兄・さく也と英介に訴えた。
ユアンは好きな相手に努力を惜しまない。毎週のような差し入れに、職場でかなり、りく也はからかわれているようだった。その上、顔を合わせる度、電話の度に「愛してる、愛してる」では、いい加減辟易する――と言うのが、彼の言い分だ。
「あのねぇ、ユアン。リッ君はアメリカナイズされているように見えて、根は日本人なんだから、あんまり押し付けがましいと、かえって逆効果だよ」
その時の様子を思い出しながら、英介はユアンに言った。
「どうしてさ? 好きな相手にアプローチするのは基本だろう? 第一、サクヤだってそうしてエツをパートナーにしたじゃないか」
「兄弟でも違うんだよ。それ以前に、恋愛対象にする性別が違うだろう?」
「違わないさ」
ユアンはやけに自信あり気な口調で言い切った。「おや?」と英介は彼を見る。鮮やかな青い瞳は躊躇いがない。
りく也が艶福家なのは周知の事実だ。当然、相手は女性で、パーティーに同伴する姿も英介は見かけている。さく也も、会うたびに弟のガールフレンドが違うと話していた。どこにもゲイの匂いがしない。
それなのに、ユアンは違わないと言い切る。その根拠はなんだろう?
「やけに言い切るね? その根拠は?」
英介の問いにユアンはにっこりと笑んだ。
「僕のゲイとしての勘さ」
「勘?」