コート・イン・ジ・アクト5 墨須夫妻
おとなしくしてさえいりゃあ執行猶予が付くものを、逃げたばかりに刑務所行き。あの男がそうなっても別におれにはどうでもいいことではあるが……。
「まあ、金が無くなったら帰ってくるんじゃないですか」
と言った。それもよくある話のはずだ。
「警察ってほんとに何もしないわねえ。逃げたのを追いかけようと思わないの?」
「別におれの仕事じゃないし」
「税金泥棒」
「逆ですよ。そんなのいちいち追いかけるのにいくらかかると思うんですか」警官百人使ったら人件費が百万円だ。「けど、捕まえたいんなら――」
「なんかあるの?」
「うーん、相模原署なんかに言ってもやっぱり何もしないだろうな。探偵雇って捜すとかいった話になるんですかね。よく『ウチのバカ息子がムショに行かずに済むように』って、保釈逃亡中の倅を追わせる親なんかがいるみたい」
「そういうんじゃなくてさあ」
「って言われても……結局何をどうしたいんです」
「そうねえ」と順子。「ほんと言うと、あたし、できれば純一には戻ってきてほしくないのよね。一緒にいるとなんか怖くて」
「ん?」
「だからさ、あたしが電気を消して部屋で寝てるとするじゃない。気づくとあれに横にヌッと立ってられたりすると――」
「ああなるほど。わかりますよ。事情がどうあれああいうことがあったんじゃあね」
おれはこないだ零子と佐久間さんがしていた話を思い出して言った。
〈生理的嫌悪や恐怖を感じる相手とはもう共にはいられない〉とか言ってたやつだ。刃物をかざして襲いかかるようなことをされたらその男とはおしまいだ。理屈でどうにかなるもんじゃないと。
「包丁出して上からグサッとやられそうな気がするわけね」
「そうそう、それ。なのにあたしがそう言うと怒る人が出てきてさ」
「はん?」と言った。「なんすかそりゃ」
「近所の新興宗教よ。近くで事件があったのを聞きつけちゃったみたいでさ。どこで話がネジ曲がったか、あたしが男と変態プレイやってるとこに純一が帰ってきて、その場にあったSM道具であたしがギョエーッとやろうとしたところに殺急が入ってきた、とか……」
「大体合ってるんじゃないの?」
「合ってない! あんたがそう言ってどうすんの!」
おれはビールを一口飲んで、それから言った。「冗談ですよ」
「ったくもう……とにかくそんな連中だから、あたしが『夫は法廷に立つのが嫌で逃げ出した』と言っても信じてくれないの。『私達には純一さんがどういう方かわかります。決してあなたが考えているような人ではありません』だってさ。あはは」
「うひゃひゃひゃ。そりゃ確かに笑える」
「でしょう? でもって『あなたは警察に洗脳されておかしなことを信じ込まされているのに違いありません。純一さんは実は政府の陰謀で改造手術を施され、殺人予知能力を植えつけられてロボット人間カプセルに入れられようとしているのです』とかなんとか……」
「ははあ」
「それでなんだっけ。外国の予知システムに妨害をかけて攻撃する人間兵器にされようとしているとか、そんなことを……」
「なるほど、そう来たか」
言って、ちょっと考えてしまった。ふと得体の知れないものが一瞬体をスリ抜けて行ったように感じたのは、実はそっちが本当の現実なんじゃないかという気がしたからだ。
自分が持っている記憶が何者かに植えつけられた偽物じゃないとどうしてわかる? まるでフィリップ・K・ディックの小説みたいな話だし、それにしても出来が悪くて割れた底が丸見えだが、しかしそもそも現実なんて出来の悪い小説みたいなもんじゃないか?
なんと言っても北朝鮮などは本当にそんな兵器を作ろうとしてるという話もある。日本だって理論的な研究ならばしているはずで、予知システムをもしも廃止したならばやはり実際にやりかねぬのだ。
殺人予知をやめたなら日本は必ず独裁者に支配される恐怖政治社会に変わる。政治家や官僚どもは決してそれをあきらめておらず、常にチャンスを窺っている。だからもしや……。
まあ、考えるのはよそうと思った。やっぱりそれほど真剣に悩むほどの話じゃない。よくありがちな都市伝説がまたひとつ新しく出来たというだけのことだ。
順子は続けて、「でもってそれから創造論の話をするの。『目玉焼きは電子レンジで作っちゃいけない。破裂する』とかなんとかね。もう何を言ってるんだか……」
「あはは」
笑った。やっぱり悩まなくてよかった。
「レンジじゃなくてレンズでしょ。それはね、海にオウム貝っていうアンモナイトの生き残りみたいなやつがいるんすけど、そいつの眼はただの針穴……」
「そうそう。そんなの黄身を突っついて穴を開けときゃいいのよね。電子レンジも今は進歩してるんだから、モードをセットしてやりゃあ目玉焼きでもハムエッグでもコンロで焼くよりうまいくらいに出来るのよ。やっぱりああいう人達ってそんなことも知らないのかしら」
「うーん」
会話が噛み合ってない。考えたら普通の人には眼の進化より電子レンジの進歩の方が大切だよな。こんな話でいちいちマジになってたら脳味噌が破裂してしまうから、タマゴが先かニワトリの方が先かとか難しいことは考えず親子丼にして食っちゃえばいいのか。
休みの日にあなたが家でゴロゴロしてると、玄関でチャイムの音がピンポンと鳴る。「ハーイどなた」と出てみるとなんだか眼つきのおかしな女。変な小冊子を出して言う。
「あなたはすべての生物は進化によって発達したと考えますか?」
ここでまず大抵の人はドアをバタンの鍵をガチャリで終わりだろう。しかし中には創造論者なんてものの存在自体に面食らってつい話を聞いちゃう人もいるはずだ。
するとおそらく、次に相手は〈眼〉の話をあなたにしてくる。
「進化論ではすべての器官は少しずつ段階を踏んで発達したと言いますね。しかし眼はどうですか。眼だけはそうはいきません。網膜とレンズ、ピントを調節する機構、それらが同時に完成された形で発生しないとまったく何も見えません。見えないものは発達しようがないのですから進化論と矛盾します。進化学者はこの謎に未だ答を出せないのです。そうです、眼こそはすべての生き物が神によって創造された証拠に他なりません――」
とかなんとか。こう聞いてもやっぱり普通はなんとも思わず次の日笑って人に話すだけだろう。
しかし変にマジメな人は、ここで考え込んでしまう。眼の話で目が曇ってマトモなものはもうなんにも見えなくなるのだ。代わりに額に第三の受光器官が開いちまって、変な光に導かれるまま狂信の道をまっしぐら――。
生物進化には確かにいろいろわからないことがあるという。一体どう進化すれば猫なんてかわいくも憎ったらしいあんな困った生き物が出来上がるんでしょうネとおれなんかは学者に訊いてみたいのだが、学者は答えてくれないだろう。
作品名:コート・イン・ジ・アクト5 墨須夫妻 作家名:島田信之