コート・イン・ジ・アクト5 墨須夫妻
それから言う。「まあとにかく、今度は会社にもバレちゃってね。あれはいちんち(一日)泣いてたけど」
「ああ、それは」
なんと言っていいのかよくわからなかった。でもやっぱり笑っちゃってはいけないんだろうな。
「えっと、少しは懲りたみたいですか?」
「どうなんかしら。その次の日にはいなくなって、それきり帰ってこないんだけど」
「は?」と言った。「『帰ってこない』? じゃあどこにいるんです?」
「だから、わからないのよ。どこに行ったのか行方不明」
「ええ? それって、ちょっとまずいんですけれど。あなたのダンナ、自分の立場わかってんのかな」
「わかってないんじゃない?」
「えーっ?」今度こそあきれ返った。「ちょっとちょっと、あなたのダンナは好きにどこでも行っていい人間じゃないんですよ。何を理由に拘留されてもおかしくない身なんですから」
「『コーリューするコーリューする』って、全然拘留しないじゃないのよ。一体いつ拘留すんのよ」
「そうだけど、でもなあ」
と言って考えてみた。しかしよくある話かもな。裁判所の呼び出し待ってる立場のやつが、『出廷なんかするのはヤだ』と言ってどこかへ行っちゃうなんて。
おとなしくしてさえいりゃあ執行猶予が付くものを、逃げたばかりに刑務所行き。あの男がそうなっても別におれにはどうでもいいことではあるが……。
「まあ、カネがなくなったら帰ってくるんじゃないですか」
と言った。それもよくある話のはずだ。
「警察ってほんとに何もしないわねえ。逃げたのを追いかけようと思わないの?」
「別におれの仕事じゃないし」
「税金泥棒」
「逆ですよ。そんなのいちいち追いかけるのにいくらかかると思うんですか」ピーエム(警官)百人使ったら人件費が百万円だ。「けど、捕まえたいんなら――」
「なんかあるの?」
「うーん、相模原署なんかに言っても、やっぱり何もしないだろうな。探偵雇って捜すといった話になるんですかねえ。よく、『ウチのバカ息子がムショに行かずに済むように』って、保釈逃亡中のせがれを追わせる親なんかがいるみたい」
「そういうんじゃなくてさあ」
「って言われても……結局何をどうしたいんです?」
「そうねえ」と順子。「ほんと言うと、あたし、できれば純一には戻ってきてほしくないのよね。一緒にいるとなんか怖くて」
「ん?」
「だからさ、あたしが電気を消して部屋で寝てるとするじゃない。気づくとあれに横にヌッと立ってられたりすると――」
「ああなるほど。わかりますよ。事情がどうあれああいうことがあったんじゃあね」
と、おれは、こないだ零子と佐久間さんが話していたのを思い出しながらに言った。
『生理的嫌悪や恐怖を感じる相手とはもう共にはいられない』、というやつだ。刃物をかざして襲いかかるようなことをされたらその男とはおしまいだ、理屈でどうにかなるもんじゃない――。
「包丁出して上からグサッとやられそうな気がするわけね」
「そうそう、それ。なのにあたしがそう言うと怒る人が出てきてさ」
「はん?」と言った。「なんすかそりゃ」
「近所の新興宗教よ。近くで事件があったのを聞きつけちゃったみたいでさ。どこで話がネジ曲がったか、あたしが男と変態プレイやってるところに夫の純一が帰ってきて、その場にあったSM道具であたしと男がギョエーッとやろうとするのに抵抗したところで殺急が入ってきた、とか……」
「大体合ってるんじゃないの?」
「合ってない! あんたがそう言ってどうすんの!」
おれはビールをひとくち飲んで、それから言った。「冗談ですよ」
「ったくもう……とにかく、そういう連中だから、あたしが『夫は法廷に立つのがイヤで逃げ出した』と言っても信じてくれないの。『ワタシ達には純一さんがどういう方かわかります。決してアナタが考えているような人ではありません』だってさ。あはは」
「うひゃひゃひゃ。そりゃ確かに笑える」
「でしょう? でもって、『アナタは警察に洗脳されておかしなことを信じ込まされているのに違いありません。純一さんは実は政府の陰謀で、改造手術を施され殺人予知能力を植えつけられて、ロボット人間カプセルに入れられようとしているのです』とか……」
「ははあ」
「それでなんだっけ。『外国の予知システムに妨害をかけて爆撃する人間兵器にされようとしている』とか、そんなことを……」
「なるほど、そう来たか」
言って、ちょっと考えてしまった。ふと得体の知れないものが一瞬体をスリ抜けて行ったように感じたのは、実はそっちが本当の現実なんじゃないかという気がしたからだ。
自分が持っている記憶が、何者かに植えつけられた偽物じゃないとどうしてわかる? まるでフィリップ・K・ディックの小説みたいな話だし、それにしても出来が悪くて割れた底が丸見えだが、しかしそもそも現実なんて出来の悪い小説みたいなもんじゃないか?
なんと言っても北朝鮮などは本当にそんな兵器を開発中との噂もある。日本だって理論的な研究ならばしているはずで、予知システムをもしも廃止したならばやはり実際にやりかねぬのだ。
殺人予知をやめたなら日本は必ず独裁者に支配される恐怖政治社会に変わる。政治家や官僚どもは決してそれをあきらめておらず、常にチャンスを窺っている。だからもしや……。
まあ、考えるのはよそうと思った。やっぱりそれほど真剣に悩むほどの話じゃない。よくありがちな都市伝説がまたひとつ新しく出来たというだけのことだ。
作品名:コート・イン・ジ・アクト5 墨須夫妻 作家名:島田信之