暗闇に棲むもの
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https://www.youtube.com/watch?v=Z50Ooqv1GFg
Béla Bartók - Romanian Folk Dances for String Orchestra Sz.56 BB 68
切り立った峰の御蔭で、雪こそ遮ってくれてはいたが、麓まで続く深い森には、肌を刺すような凍てつく風が吹き下ろしていた。樹々の間を風が通る時には、まるで血に飢えた野獣の咆哮にも似た不気味な音を立てるので、子供たちはもとより大人ですら夕暮れに森の中の道を通るのを拒む程だ。それでもこの時期に森の中の道を進むのは余程旅慣れた行商人か、命知らずの無頼漢、はたまた食い詰めた因果者ぐらいなものだ。だがその親子は、それらのどれにも当たらないように見えた。初老の男は年の離れたまだあどけなさの残る息子を連れて暗い道を足早に進んでいた。
「おとう、寒いよ」
「もう少しだから、頑張って歩くんだ。」
「おとう、おなかすいたよ」
「もう少しだから、頑張って歩くんだ。」
息子は樹々の間に動く物陰を見た。
「おとう、なにかいるよ」
「なにもいやしない、前だけ向いて、頑張って歩くんだ。」
「でも、おとう、いま、ほら動いた。」
「静かに、黙って見ないふりをして、頑張って歩くんだ。」
「おとう、あれはなに?」
「わからない。だが森に入った時からずっと着けてきている。」
「おとう、あれは山賊?」
「いやちがう」
「では、なに?」
「静かに、黙って見ないふりをして、頑張って歩くんだ。」
「おとう・・・・」
「おとう・・・」
辺りは更に暗くなり、二人は更に歩を早めるが、追手も樹々の間を足早に着いてきているようだ。
ガサっ!と下草の揺れる音がした
「おとう、何かがついてきているよ」
「なに、きにしないで、もう少しだから、頑張って歩くんだ。」
ガサ、ガサ・・
追手は・・ひとりじゃない。
ガサ、ガサ、ガサッ・・
段々、数が増えている・・・
ガサ、ガサ、ガサ、ガサ・・・
「おとう・・おとう・・」
遠くに灯りが見えた。
二人は足早に灯りのもとに向かった。
すると呼応したように・・
ガサ、ガサ、ガサッ、ガサ、ガサ、ガサッ、ガサ、ガサ、ガサッ
思い切り走りながら灯りのもとに辿りつくと、古びた小屋が立っており・・・
その入り口のドアを押すと軋んだ音がする。
息子はその瞬間、外を見やるが、追手の姿も影も見ることはできなかった。
ここは、この深い森の中にある分岐点に立つ木賃宿_。
木賃宿の女将は二人を見ると、愛想もなく、「いらっしゃい」といい、宿帳を差し出した。
浅黒い肌の夫婦。黒髪の女将と白髪も薄い亭主。
父親は宿帳に二人の名を記すと、「食事はどうする?先払いだよ」
奥には暖炉があり赤々と炎を上げていた。
ランプの灯の下に数名の宿泊客と思われる男たちが、食事と酒にありついていた。
「部屋は二階の突き当りだよ。」
親子は鍵を受け取り、荷物を担いで階段を廻りながら二階に上がると、細い廊下があり扉が両側に二つ、そして突き当りに扉があった。古い建物で一歩足を動かせば、軋んだ音がする。
細いランプ灯の下で鍵を差し込みドアを押してみるとギギイィーっと大きく軋んだ音がした。
ランプの芯を伸ばして明るくすると狭い部屋の両側にベッド。その間は荷物を置けばいっぱいだった。
所謂屋根裏部屋ではあったが、排煙用のパイプが天井を通っていて思いの外、暖かく感じられた。
ベッドの頭上には恐らく玄関の真上であろう方向に小窓があった。覗き込むと自分たちが歩いてきた道がこの宿の前で分かれていて気が付かなかったが、小広い広場になっているようで、この建物の左奥には主たちの住まいと思われる建物があるようだった。逆側といえば灯が無いことから納屋であることが窺がえた。
小奇麗に掃除はしてあるとはいえ、それ以上でもそれ以下でもなく、更に言えば値段の割には粗末すぎる部屋だったが、これが木賃宿というものなのだろう。何処からともなく隣の部屋の宿泊客の鼾が聞こえてすらいる。薄い壁なのだろう。
父親はベッドに身体を投げ出して、身を横たえると痛めた脇腹に巻かれた包帯を見やる。包帯を外して患部に軟膏を塗ると再び包帯を巻きなおす。軟膏の饐えたような臭いが鼻につく。息子が空腹から腹を鳴らすと、気が付いたように身体を起こす。「悪かった、食事に行こう。」すると息子は笑顔を見せた。
「だがな。」父親は息子に厳しい顔を見せ言葉をつづける。「この辺りの宿の客といえば一癖も二癖もあるものばかりだ。ほかの人に目を合わせるな。それだけでもめ事になることあるからな。いいか、他の人に目を合わせるなよ。」息子は父親の言葉に緊張のあまり震えた。
緊張したまま薄暗いランプの灯る廊下に出て、軋んだ音のする階段を下ってゆく。
カウンターといくつかのテーブルがあり、カウンターは毛皮を着た男たちが占領して酒盛りをしていた。
テーブルもほぼいっぱいだったが、親子が階段を降りてくるのを見ると、女将はひとつのテーブルを囲んでいた男たちをもうひとつのテーブルに移らせた。文句を言いながらも男たちは席を空けた。親子をテーブルに着かせると女将はドスの利いた声で言う。「今晩の夕食はジャガイモと自家製の腸詰のスープだよ。」愛想はないが、てきぱきと食器を並べてゆく。そしていくつかのパンとメインディッシュが振舞われる。立ち上る湯気に息子は思わず頬が緩み、手を伸ばした。田舎料理風な濃い味付けに食欲を増した。「ここいらの岩塩で味付けしてあるからね、美味いんだよ。」女将は自慢した。「欲しかったらまだまだあるからね。」
「それはそうと」・・この中ではいちばんましな格好をした小柄な男が、テーブルの端に椅子を持ってきて
座ると、父親に擦り寄った。「あんたたちゃ、どちらに行くんだい?西か?東かぃ?」
父親は目を合わせずスープをすする。そんな父親に男は話を続ける。「この森の西の山越えの国じゃ不作が続いて農民が蜂起してましてね、貧乏貴族共は、農民共に食い殺される始末。その後は荒っぽい連中の群雄割拠。血まみれの殺し合いが・・もう何年も続いている有様でね。そこで廃墟になった城に忍び込むことが出来ましてね。地下にあったんですよ、こんなもんが。」
男はポケットから金属の塊を取り出してテーブルに置くと二つに分かれて転がった。その重々しい音からそれなりの重さが容易に想像できた。
「こいつぁオーストリア大公の血筋を引くフェルディナンド家の発行した札の原版ですぁ。」
男の言葉に父親はスプーンを持つ手を止めた。
「あの城はフェルディナンド家の末裔の侯爵が住んでいたんです。そりゃぁもう今じゃドイツに逃げちまいましたがね。今にまたオーストリアから軍隊を連れて戻ってきてくれますぜ、そしてあのターキーどもを残らず一掃してくれますぜ・・そしたら、またこの札を刷るに決まっている。コイツを持っておけば、いやってほど札が刷れますぜ、どうです?金20枚で。」
余りに法外な値段に父親は、無言のまま首を振りスープに手を伸ばした。
「坊ちゃんにも、いいもの喰わせて、学校にも行かせることが出来ますよ!どうです?金15枚で。」
男は父親の顔を見ながら値下げしてきた。