コート・イン・ジ・アクト4 あした天気にしておくれ
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予知システムが殺人を未然に防いでいるために、現在、日本国内で実際に人が殺される事例は年間十数件。うち半分はどうしても防ぎ切れないシステムの限界がもたらすケースであり、もう半分はなんらかのミスが原因となるのだが、ある意味仕方がないとも言える。
いや、人が言うのはともかく、殺人課員のおれが言っちゃあいけないんだが、予知システムを採用しているどこの国でも人口比で大体そんなところだという。例外はむろん軍事独裁国家だ。そこで何が行われているかは外から窺い知れない。
本当に殺されるのは十か二十――しかしそれは児童虐待致死を含めない数字だ。一般的にこれについては他の殺しと分けて数えられている。
その理由はいくつもある。言葉通りの〈致死〉でありあまりはっきり殺人と呼べないのもひとつだが、それは大きな理由じゃない。だったら何が大きな理由なのかと言えば、これがある意味〈事故死に近い〉と言って言えなくないことがある。
なんだとおっ、自分の子供を殺しておいて何が事故死みたいなもんだ、ふざけるな! と思われる向きもあるだろうが、実際に微妙なケースもなくはないのだ。無茶な泳ぎの練習させて死なせちゃう、というような……けれどもやはりもうひとつ、〈極めて深刻な社会問題であるからこそ分けて考えるべき〉という、そちらの理由の方が大きい。
そしてさらにもうひとつ、能力者が予知しても死を未然に防ぐことが難しいのが、児童虐待致死を他の殺人と分けて数えなければならない何よりの理由とさせている。防げるのなら別に分けなくていいわけだ。
児童虐待致死を未然に止めるのは、基本的に難しい。予知システムには限界があるのだ。今は確かに殺人予知者などというマンガみたいな人間がいて、彼らの感知範囲内にいる人々の不慮の死が事前に報告される。殺人や事故死だ。虐待致死は殺人であり事故死みたいなものでもあろう。だが不慮の死なのかどうか。
まあ、やっぱり不慮の死だよな。そこら辺の暴走族が夜中にカツアゲなんかして、なんだその顔気に食わねえな、やっちまおうぜおうバキバキ、すみません、まさか死ぬとは思っていなかったんです――。
ってバカ野郎。という、そんなやつらが箱根辺りの山道でさんざんおれ達の手を焼かせてくれる日々に終わりはないのだが、こういう傷害致死っていうのは間違いなく不慮の死だ。能力者はみんなビンビン感じるという。だから未然に止められて、今ではこんなので人が死ぬのはほぼ有り得なくなっている。
一方、病死は不慮じゃない。死ぬ当人も大抵は死を受け入れる余地があり、最期の時には「ああこれでラクになれる」などと思っていたりするものだ。殺人予知者はそういうのは感じ取らない。
予知されるのはその人が望んでいない突然死。しかし児童虐待致死は突然の死、不慮の死なのか。
違う。突然でも不慮でもない。何ヵ月もの長期に渡って日常的な暴力を受け、少しずつ体が弱った末に迎える死――そういうのは突然じゃなく不慮でもない。寝たきり患者が闘病の末に逝くのと同じ死だ。
被害者は何をされても逆らうことのできない小さな子供達。ロクにものも食わせてもらえず痩せ細り、自分を庇護する者であるはずの親に嬲られ虐げを受ける。逃げる場所などありはしない。絶望の果てにある死はもはや安らぎなのだ。
よって児童虐待致死を、能力者達はほとんど何も感じることはできないのだった。そんなに便利な、都合のいいものじゃない。完璧なシステムなど有り得なく、これは限界の外にあるのだ。
昔の映画に似た設定で途轍もなく都合のいいのがあったという。殺人しか予知できません。他の能力はありません。あ、でも、これも予知できます。そのうえこんなこともできます。おまけに霊媒能力があって死者と交信ができるんですよ。すごいでしょう。ワタシの能力は完璧です。予知したことは必ずその通りになって、絶対に外すことはありません。あ、でも、外れちゃいましたあ。システム廃止して終わりましょう。
という、〈昔〉どころかいま作られる映画も小説もドラマもマンガもそんな支離滅裂ばかりだ。システム廃止はできないとわかっているはずなのに、なんだかんだとダダをこねる。わかっているけど、わからない。予知システムはどうして廃止できないんだろう。だってこんなのあっていけないシステムじゃないか。殺人は止めるべきだけど、予知で止めてはいけないじゃないか。システム廃止ができないなんて、そんなの絶対間違ってるよ……。
役者が言うと説得力があるみたいだね、このセリフ。おれはバカだと思うけど。
当然ながら現実がそのようなものであるわけがない。システムに問題があるのは当たり前、限界があるのも当たり前だ。その中でおれはおれの仕事をする。できる限りのことをやる。死ぬとわかっている人がいて、救うことができるなら、放ってなんかおけるものか。
おれはサッキュウ(殺急)。人命救助要員だ。
予知ができないものは防げず、その時はまあしょうがない――とは言え、望みがまったくないわけでもなかった。予知者の中にごく一部だが、児童虐待致死も感じ取る者がいるのだ。
力の強さと言うより質の問題で、それができる者によると、親に虐待されて死ぬ子が逝く時の悲しみの思いというものは、他の殺しの時とは別種の感覚で弱くてもはっきり伝わってくるのだという。
最近この神奈川県警にやって来た殺人予知特捜官の前田奈緒はどうやらそのひとりだった。これにより、日本国内で年に五十――週に一件の割で起こる児童虐待致死のうち何割かは事前に予知されることになる。
だが問題はむしろそこから。それはたんに〈予知されることになった〉というだけなのだ。報せを受けて救命部隊が出張っていっても、救けることができるのはさらにそのうちのわずかに過ぎない。
部隊がゲンジョウに着いた時にはすべてが手遅れである場合が多いのだ。人が死ぬのが予知されるのは絶命の二時間前――なぜかそう決まっていて、なんとかリポートみたいな映画のように五分置きに設定がコロコロ変わることはない。必ず〈絶命の二時間前〉だ。それがおれ達殺急にとっての基本的なタイムリミットということになる。
で救命出動となるが、児童虐待では予知があったその時点で既に子供は長期の責め苦で死に瀕しているのが普通だ。〈基本的なタイムリミット〉なんていうのは子供殺しに当てはまらない。そこに融通つけてくれる都合のいい神様はいない。駆けつけても虫の息で、病院に運び込んでも間に合わず、子供達の多くが死んでしまうのだった。
ゆえに年間十から二十という殺しの実被害者数は、児童虐待致死を入れると数倍にハネ上がってしまう。
予知システムの限界だ。よりにもよって、もっとも傷ましい殺人を未然に止めるに止められない。そしてなんとか助かった子も、まともに歩けるようになるかも運次第。心に受けた傷はどうすりゃ癒せるのか。
作品名:コート・イン・ジ・アクト4 あした天気にしておくれ 作家名:島田信之