道を拓く者
初の日本人大リーガーになったのは、1962年に高校中退で南海ホークスに入団した村上雅則投手。
チームはプロ1、2年目に伸び悩んだ村上投手を大リーグの下部組織、日本でならば4軍に当たる1Aのチームに野球留学させた。
その際、上部組織のサンフランシスコ・ジャイアンツは、契約書に「大リーグに昇格する選手が出た場合、1万ドルの金銭トレードで契約できる」と言う一文を盛り込んでいたのだが、昇格する選手が出るわけはないと高をくくっていたホークスは意にも留めていなかった。
が、ジャイアンツはサウスポーでサイドスローに近いスリークォーターで投げる村上投手をワンポイントリリーフとして重宝すると考え、彼に大リーグ昇格のオファーを出す。
慌てたホークスは異論を唱えるが、契約書に先の一文がはっきりと記されていてはどうしようもない、村上投手はそのまま大リーグに昇格し、2年間で54試合に登板、5勝1敗9セーブ、防御率3.43と言う好成績を残す。
村上投手の処遇についてはジャイアンツとホークスの間で紛争となり、調停の末に村上投手はホークスに連れ戻されてしまったのだが……。
野茂投手の成功の影に隠れる形にはなってしまったが、野茂投手よりも30年も早く日本人大リーガー第1号となったのは間違いなく村上投手だった。
もし村上投手がそのまま大リーグに残っていたら……まだ22歳だったことも考えると、彼に続く日本人大リーガーは、30年の時を待つことなくその後も誕生していたかも知れない。
野茂投手が大リーグに移籍する際も同様だったが、選手よりもチームを優先する姿勢が見え隠れする。
無論、野球はチームスポーツであり、チームを大切にするのは当然の姿勢と言えるかもしれない、しかし、野球は個人スポーツでもある、ピッチャーとバッターが対峙する時、それは個と個の戦いでもある、たとえ送りバントのシチュエーションだったとしても、バッターは上手く転がそうとし、ピッチャーはバントさせまいとするのが野球だ。
現在の感覚からするとチームのために個を殺すことも止む無しとする処遇には違和感を禁じ得ない。
現在の日本では、チームとは、言い換えれば組織とは個の集合体だと考える方向に向かっている、その感覚からすると、大リーグが必要とし、本人も大リーグでのプレーを望んでいた村上投手を無理やり帰国させた南海ホークス、自分を生かしてもらえないと感じて移籍を希望した野茂投手を、任意引退と言う扱いで縛ろうとした近鉄バッファローズは救いようのないほどに横暴だったと感じてしまう、しかし、当時の感覚からすると個を主張して組織に打撃を与えることは『わがまま』と見做されたことも否定できない。
それが日本社会の構造であり、感覚でもあったのだ。
村上投手は連れ戻されてしまったが、野茂投手はアメリカで選手生活を全うした。
それは二人の資質の違いではなく、日本社会の構造の変化がそれを許したのだとも考えられる、そして野茂投手を追うようにして大リーグに挑戦する選手が続々と現れたのはそれを象徴する現象だったとも言えるかもしれない。
平成とはそんな時代だったのだとも。
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二球目のサインはストレート。
雅美にも全く異存はない、大きく頷いてセットポジションに入った。
プロ入りした当時、雅美のストレートの最高速は110キロだった、女子としては遅くもないがそう速くもない。
高校時代は110キロで充分だった、雅美のウイニングショットは80キロ前後のナックルボール、30キロの差があって、しかもどう変化するか予測のつかないナックルボールを生かせるストレートがあれば、それで文句なく抑えることができたのだ。
だが、プロとなるとそうは行かなかった。
ナックルボールは相変わらずウイニングショットとして相手バッターにとっての脅威となったが、担ぐようなフォームで投げる雅美のストレートは回転数が多くはない、同じ110キロでもスピンが効いた伸びのあるストレートなら武器となるが、雅美のストレートはむしろ打ち頃のボールになってしまうのだ。
壁にぶつかった雅美は、その時にフォームの改造を考えたのだが、監督、コーチは違う意見だった。
担ぐようなフォームはナックルボールには適している、ナックルボールがあるならばストレートで空振りを取る必要はない、ストレートを捉えられても遠くへ飛ばされなければ良い、必要なのは筋力アップ、重いストレートを投げられれば良い……雅美は全面的に納得して筋力アップに努めた。
プロではトレーニング設備も充実し、信頼できるトレーナーもいる。
そうして雅美は120キロのストレートを手に入れた、フォームは変えていないのでナックルボールも80キロから90キロにスピードを増し的ますます捉えるのが難しくなり、回転は少なくても力のあるストレートは完璧に捉えたつもりでも押されてしまう。
その結果、雅美は押しも押されぬエースとなったのだ。
外角低めに投じたストレートは見逃せばボールと判定されたかもしれない、しかし追い込まれればナックルがあると考えていたバッターは手を出し、ファール。
雅美はツーストライクとバッターを追い込んだ。
d(>◇< ) アウト! _( -“-)_セーフ! (;-_-)v o(^-^ ) ヨヨイノヨイ!!
21世紀となった2001年、日本人野手のパイオニアが現れた。
イチロー選手である。
大リーガーとしては体が小さく線も細い、プレシーズンで結果の出ないイチローに対して、ファンやマスコミの目は冷たかった。
当時日本のゲーム会社がシアトル・マリナーズの大株主だったこともあり、TV放映料目当て、ジャパンマネー目当てで入団させたのではないかと噂された。
日本時代から付けていた背番号51も、チームのエースだったR・ジョンソン投手が付けていた番号だったこともあって『栄光の背番号を汚すな』とすら言われた。
だが、イチロー選手は結果を出すことで心無い中傷をはねのけた。
入団の年に首位打者、盗塁王、最多安打のタイトルに加え、新人王、MVP、シルバースラッガー賞、ダイアモンドグラブ賞などの賞を総なめにし、マリナーズも年間最多勝に迫る高勝率で地区優勝を果たした。
パワフルなホームランバッターがもてはやされた時代にあって、アレックス・ロドリゲス選手と言う稀代のホームランバッターをFAで失ったマリナーズが目指したのは一発長打よりも脚を絡めた攻撃を旨とする『スモール・ベースボール』、マリナーズがそのジグソーパズルを完成させるにはイチロー選手は必要不可欠なピースだったのだ、そして彼は想像をはるかに超える活躍で期待に応えた。
その後19年にわたって数々の記録を塗り替えたイチロー選手、彼は先ごろ引退を表明した。
くしくも、近年になってヒューストン・アストロズが打ち出した『フライ・ボール』革命によって、大リーグが再びホームランバッターの時代を迎えようとしているのはいかにも象徴的、イチロー選手は明らかに大リーグに一つの時代をもたらした存在だったのだ。