短編集48(過去作品)
その時に見えていた衣装、まるでアゲハチョウを意識していた。そういえば、今日の衣装もアゲハチョウに見えなくもない。時間を超越して、過去が未来に繋がったのだ。
夏休みの自由研究で昆虫採集をやった。男の子に混じって女の子もしていたが、潤子は昆虫採集に違和感はなかった。臆病なところがあるくせに、血を見るのはそれほど怖くはない。人の血を見るよりも自分の血をよく見ていたからかも知れない。
大人しい性格だったくせに、おてんばでもあった。冒険心が豊かだったのだろう。小学生の頃は男の子と一緒になって結構無茶なことをやったものだ。
木登りや空き家の探検、洞穴を見つけてきては秘密基地にしたりと、男の子顔負けのところがあった。
そのせいもあってか、生傷が絶えず、よく擦り傷を作ったりしていた。かすり傷なら大したことはないのだが、時々大きなケガもやった。腕の皮が抉れて、数針縫うような大ケガもあったりしたものだ。
「この娘は強い娘さんですね。普通なら男の子でも顔を逸らすのに、平気で傷口の治療の時じっと見てましたよ」
先生に褒められたと思っていた。実際は先生も緊張しながらの治療だったことだろう。その時の視線で手が震えていたかも知れない。これは後になって感じたことであるが、傷口を見ていたというよりも、自分の血を見ていたのかも知れない。見たかったのかどうかは分からないが、目が離せなかったことだけは覚えている。じっと見つめていて、血に対する間隔が薄れていったのは事実であろう。
女性には、男にはない生理的なものがある。血液に関してはそれだけ敏感なものだ。
聖なるものと言ってもいいであろう。潤子は聖なるものだという意識をずっと持っていた。
赤い色でも、子供の頃に見た血の色と、成長するにしたがって変調してくる身体から流れ出る血の色が微妙に違っている。色だけではない、匂いにしてもそうだ。同じ身体から出てくるものであるにも関わらず、その違いをずっと考えていた。
――見つからない答えを飽きもせずにずっと考えている――
大人になっても考え続けると思っていた。
地味な性格だった潤子が、急に派手な衣装を身につけたいと思う。それは血の色に関係ある。ショウウインドウで見た衣装は、カラフルな色を醸し出していたが、一番派手に感じられた色は赤だったのだ。
同じ赤でも見る背景によって色が変わって見えるということに気付いたのは大人になってからだ。
大人になってからだという意識はあるのだが、今から考えてどれほど前なのかという意識は朦朧としている。
着替え室で見た時、部屋は明るかったが、表の明かりとも明らかに違う。また、パーティ会場の明るさとも違う。それぞれ同じ明るさであっても、全体を支配している色が少しずつ違っているだろう。同じ表であっても、室内であっても、角度によって違うものだ。その時々の見え方がさまざまである。
だが、この衣装に彩られたアゲハチョウのイメージ、これだけは変わることはない。アゲハチョウをイメージしていると思って見ていると、違う明るさ、違う角度でまったく違った色を奏でているはずなのに、赤色に限ってはまったく同じに感じられる。
――今までに感じた赤なんだ――
と感じるが、どの時の赤なのか分からない。
子供の頃に感じた赤なのか、成長期の生理現象に感じた赤なのか、それとも、明るさが色に関係あることに気付いてから感じる赤なのか、どの赤なのかが自分でも分からない。
夢で色を感じることはできない。しかし、今までに見た夢の中で、赤い色だけは印象に残ったことが何度もあった。
――白と黒と赤――
それだけの世界が夢の中で繰り広げられる。赤という色が入り込んだだけで、カラーだったように思えるのだから、赤という色はそれだけ偉大だ。
もちろん潤子だけが感じていることなのかも知れない。他の人に話すこともないだろうし、
「好きな色は何ですか?」
と聞かれれば、
「赤です」
と答えるかどうかも曖昧だった。精神状態が不安定な時ほど赤を感じているようだ。
パーティ会場での潤子は目立っていた。誰よりも目立っていた。男だけではなく女性からの視線も釘付けにし、何人もの男性から話しかけられた。
今までの潤子であれば男性から話しかけられれば緊張してしまって何を話しているか分からないほどに舞い上がってしまうが、その日はまったくそんなこともなく、相手に話をしっかりと合わせていた。
しかもさりげなくである。
百戦錬磨のパーティの常連と思しき男にも、しっかり受け答えしている。まったく知らないはずの作法すら、勝手に身体が動いてこなしている。
――本当に初めてパーティに出席したのかしら――
自分ですら不思議だった。
まわりの誰が彼女がパーティを初めてだと思うだろう。礼儀作法も、会話における作法もどう見ても常連である。潤子はまわりからの視線を楽しんでいた。
潤子に注がれる視線のほとんどは嫉妬ではないだろうか。男性が一人話しに来るたびに、自分に話しかけて来ないことで女性からの嫉妬を浴びる。男性の中には、話しかけたいのは山々だが、自分の中で勝手に、
――話しかけられないほどの高貴な雰囲気がある――
と潤子に対して勝手に感じてしまって、それが嫉妬に変わってしまう。
だが、その嫉妬もここでだけである。いつもの自分に戻ると、誰も潤子のことなど意識する人もいない。そばにいても決して目立たない。そばにいてもいなくても、存在価値のない「道端の石ころ」、それが潤子なのだ。
潤子は自分がいくら視線で光線を送っても誰にも気付いてもらえない辛さを知っている。いつの間にかそれが当たり前となって、何も感じなくなってしまっていた。別にそれでもいいのだ。だが、一生に一度くらいは男性からも女性からも嫉妬の視線を身体全体に浴びたいと思ってもバチは当たらないだろう。これが、今回のパーティ出席への目的だった。
恥を掻くかも知れない。高貴な会話など今さらできるはずもなく、ただ、話しかけられればさりげなく逃げていればいいのだった。
どうせ相手は決まった時間だけの人である。気にすることなど何もない。
それにしても、これだけ男性をいなせる才能が自分にあったなど信じられない。それも衣装のなせるが業であろうか。
――衣装が光り輝いている間、自分はお姫様になれる――
シンデレラの心境ではないか。
あっという間の時間が過ぎ、シンデレラに決められた時間が終わってしまった。
潤子に後悔はなかった。
――決まった時間が終わりを告げるその時、自分の時間に戻るその時、きっと私は未練を残すに違いない――
時計の音が気になり始める。自分の中で感じる時間が未練という形に変わっていくと感じていた。後悔はないが、未練が残る。これこそ潤子がこの時間を生きた証拠であった。
衣装の効力も落ちてきて、会場の外に出た潤子は空を見上げた。そこには見えるはずの星がまったく見えず、月すら見えていない。
――星や月が見たかったな――
表に出たら最初に空を見上げて星や月から見られる自分を感じたかった。だがそれは叶わない。元に戻ってしまった自分が失ったもの。それを感じていた。
――上から見下ろされる気持ち――
作品名:短編集48(過去作品) 作家名:森本晃次