コート・イン・ジ・アクト
06
未来予知で殺人が未然に防げるようになったとき、少なくともこれで故殺はなくなるものと多くの人に信じられた。計画殺人なんてもの企むバカはもういないでしょう、推理作家は別の仕事を探さなければなりませんね。
などと言われた。言われたが、これがまるきりの間違いだった。
企むバカがいくらでもいたのだ。ほとんど減りもしなかった。人間はそもそも愚かな生き物であり、バカさ加減に限りなどないのだ。それがちょっとでもわかっていれば、誰も間違いはしなかっただろう。
人間が真に利口な生き物ならば、未来予知による殺人阻止に反発など起こらない。だが、バカだから、非論理的に考える。『えっ、そんなのおかしいじゃないか。もし途中でやめたならばどうなるんだよ』と。
『途中で思いとどまるなら、そもそも予知はされないんだよ、ボケが!』
と、論理的に考えられる者ならそう論理的に考えられるが、考えられない者はできない。変に小利口なやつほどできない。弁護士とか、政治家とか、映画監督みたいなのとか、頭が良さそうに見える者が『予知など信用できない』と言うと、そうだそうだと賛同する。
それだけならば、バカは死ぬまでバカをやってりゃいいさと言うところだが、問題は次にこういう考えをバカがしてしまうことだ。
『もし自分がたとえ人を殺そうとしても、警察が予知できるとは限らないんじゃないか?』
と。そう、希望的観測だ。それを確信に変えるのが人の愚かなところなのだ。テレビを見れば毎日毎日こんなドラマをやっている。
『予知に間違いはありません。あなたの夫は人を殺すんだ』
『そんなの嘘です。あの人は、人が殺せるような人じゃありません!』
だがそいつは警察の追跡を躱して、憎む仇敵の元へ走る。しかしドタン場で、
『ああできない、やはりオレには……』
『あなた! やっぱり! ワタシはあなたを信じていたわ!』
というご都合主義ね。辻褄なんか何も考えてないんだったら、どんな話でも作れるよな。それから、ネットの掲示板など見ると、しょっちゅうこんな書き込みがあるとか。
《○月○日○○で通り魔殺人を決行する。止められるものなら止めてみろ!》
数日経つとそれがこんな文句に変わる。
《ふっふっふ。オレは本当にやる気だったのに、警察は捕まえに来なかったではないか。やっぱり予知なんかできないのだ》
お前は全然やる気なんかなかったよ! しかしこんな話をおれが親戚などにしてみると、おれの叔母さんなんかは言うのだ。
『けれどねえツカサちゃん。人が人を殺すなんて、やっぱり異常なことよねえ。あたしは怖くてとても考えられないわ』
『あのさ叔母さん。おれの話、ちゃんと聞いてた?』
『うん。いや、よくわかったぞ』と横で叔父さんが、『おれがもし人殺しをするとしても、警察は絶対予知できないと思うな』
これで故殺がなくなるはずがないではないか。
実際、殺しがなくなるどころか、かつてはなかった新しい殺人までが続々生まれている始末だ。
たとえば、ストーカー殺人。彼女が好きで自分のものにしたいのに、殺しちゃ本来なんにもならないはずだった。それでも殺っちまってたわけだが、今は違う。
『警察が未然に止めてくれるんだから、きっと彼女はそのとき気づくことだろう、「この人はこんなにまでもアタシを愛しているんだわ。その想いに応えなければならないわ!」と。「やっとわかってくれたんだねハニー!」』
なんてなことになるはずと本気で考えちまいやがって、予知で未然に防がれるのを前提に、女を殺すストーカーがゴマンと生まれることになった。
確かにおれ達が止めるからその彼女が死ぬことはない。だが彼女にしてみたら、『その男に自分は殺されるはずだった』なんて聞いても気味悪いだけだ。よってその男の恋は、『どうしてだーっ!』との虚しい絶叫にて終わる。
これは紛れもなく故殺なのだが、殺意がないから殺人未遂の罪に問えない。だからムショ(刑務所)へはストーカー行為規制法で行ってもらうことになる。ええと最大6ヵ月の懲役だ。
――と、そんなのがウジャウジャいるからおれの商売は繁盛してる。推理作家はネタに困らないのだろうが、いいことなのかどうなのか。
作品名:コート・イン・ジ・アクト 作家名:島田信之