コート・イン・ジ・アクト
05
秋山美紀は肩を震わせて、おれの胸で泣いている。おれが彼女にしてやれることは何もない。だから黙って泣かせていた。彼女はまともな男のぬくもりを求めているのであって、これはせめてもの埋め合わせに過ぎない。
割れた瓶を繋ぎ合わせて水を入れるようなものだった。そんなことをしても水は漏れていくだけだ。
レイプの被害者となった女は大きくふたつに分かれるという。すべての男を恐怖し憎むようになる者と、自分を護る強い男にすがりつこうとするタイプと。秋山美紀は後者であるわけだろうが、しかし男と言ったところで身近にいなけりゃしょうがない。いてもロクな男じゃなく、「お前はもう穢れた女だ」と言ってソッポを向くやつかもしれない。
そうして夫や恋人や父親からも邪険にされる性犯罪被害女性が多いのだ。だから頼りになる男の助けを求めるタイプの女は、護ってくれる適当な相手を探そうとする。そうした心理につけ込んで金と体が目当てのヒモが巻き付いてくる話もよくあるという。
彼女もここを退院して元の生活に返ろうとしたら、たちまちそんな蛭どもに狙われることになるのだろうか。ある意味ではあのヒマラヤ雪男よりタチの悪いひとでなしに骨までしゃぶられてしまうのだろうか。なのにおれにできることは今この時の少しの間、胸を貸してやるだけなのか。
そう思っても、しかしどうすることもできない。彼女にかける言葉のひとつも見つからなかった。
それでおれは窓を見ていた。いきなりバシンと音がして、蜘蛛の巣状の大きなヒビがガラスに入った。
え?と思ったらもうひとつ。真ん中に小さな穴が開いている。これはつまり……。
銃撃だ! 考えるより先に体が動いた。おれは彼女をかき抱いて、ベッドから身を引き剥がさせた。ふたりして床に転がる。
三発目の弾丸が窓を粉々に砕け散らせた。
向かいの病棟。開いた窓がひとつ見えた。そこにチカリとした光。
四発目が彼女のベッドを撃ち抜いた。
彼女と眼が合う。ただでさえ大きな目を見開いてる。そこにおれが映っていた。
こんなはずはない――おれは思った。こいつは予知されていない。殺人が起きるはずはないのだ。
いや違った。それはたんに人が死なないということでしかない。狙撃自体はあっていいのだ。それで腕でも撃たれることも――。
有り得る。そうだ。ここでおれか彼女が撃たれて死ぬなら二時間前に予知がされていなければならない。そして殺急が出動し、未然に防がれていなければならない。
しかしそれはおれか彼女が〈ここで死ぬなら〉の話なのだ。もし弾丸が当たってここでケガをするとしても、ケガで済むなら予知はされない。能力者が感じ取るのは、暴力死を遂げる者の魂が最期に上げる悲鳴のようなものなのだから。
そうだ。おれ達はここで死なない。弾丸がもし体を貫いてもケガだけで済む。
そのはずだ、とおれは思った。とりあえずその〈はず〉というだけで充分だった。
「行くぞ!」
おれは彼女をかばいつつ、ドアに向かって走り出した。またガラスがパリンと割れる。壁に弾痕が穿たれる。
転がるように廊下に飛び出し、ドアから身を遠ざけた。これで姿は撃ってくるやつにはもう見えないはず――。
そう思って数秒が過ぎた。次の銃声は聞こえない。とりあえず難は逃れたようだ。
「どうしたの?」
零子が飛んできて言った。看護婦さんがひとり一緒だ。
「今の音、何よ」
「撃たれた」
「は?」
と零子。おれは無視して看護婦さんに、
「警備室に連絡を取る方法はありますか。わたしは警官です」
バッジを見せる。
「はあ……ええと、内線が……」
「じゃあ電話して、病院を出る全員の持ち物を調べるように伝えて。銃を持った者を外に出さないように」
「えっ、あの、あたしがですか?」
「そう。急いで!」
零子が頷く顔を見て、看護婦さんは従う覚悟を決めたようだ。
おれは零子に秋山さんを「この人を頼む」と言って押し付け、駆け出した。
「ちょっと、どこ行くのよ!」と声が追ってくる。
そんなの決まってんじゃんか。おれを狙ったやつをタダでおくものか。
あいにくグロックは持ってない。今は普通のピーエムも拳銃を携帯したりしないのだ。狩猟や競技用ライフルならば合法的に持てなくもないが――とにかく素手でブチのめすだけだ。
しかし、ちょっと走ったところでおれは道に迷ってしまった。ハテ、と思う。あの病棟へどう行きゃいいんだ?
とりあえず角を曲がってみる。ちょうど渡り廊下になってた。こっちへ行けばいいのかな?とおれは迷いながら、窓があったので外を見てみた。
病棟が建ち並んでいた。ハテ、とおれはまたまた思った。あの病棟はどれだっけ。それにあの窓は一体どれだ? いや、それがわかったとして、こっからどう行きゃたどり着くんだ?
見当もつかなかった。
おれは愕然とした。これはまさしく迷宮だ。この中にいる狙撃者をどう見つけたらいいというんだ?
作品名:コート・イン・ジ・アクト 作家名:島田信之