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黒いチューリップ 14

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 次は何をしでかすか分からない。危険なので母子は直ちに引き離された。彼女の几帳面だった性格も一変して、移送される際でも身の回りの整理は全く出来なかった。ただ奇妙なことは、知り合いの女が見舞いで持ってきた白いチューリップの花――飛び散った血で赤黒い染みがついていたにも関わらず――を、母親は大切そうにずっと手にしていたらしい。
 ああ、恐ろしい。
園長は聞いてしまったことを後悔した。忘れようと努めれば努めるほど、頭の中に鮮明な絵が浮かんでくるのだ。
 シーツが乱れたベッドの横で椅子に腰掛けて空を見つめる放心状態の母親。かつては美しかったが、その面影は残っていない。老婆のようだ。ただ痩せ細った手で赤黒く汚れたチューリップを大事そうに握っている。そんな夢を見ては夜中に何度も目を覚ました。
 もしかして呪われた子なのだろうか? 高い教育を受けたはずの園長の脳裏に、最近そんな非現実的な言葉が頻繁に現れる。その度に理性で否定するが、保育士とその子供の異常なほどに親密な関係を見ていると徐々に自信が無くなっていく。今では子供の方が相手を操っているようにも窺えたし、世話をする保育士の顔には恋をしている女の表情さえ浮かぶ時があった。日報にしては、あの子のことしか書いていない。
 子供が普通の子であってほしい、と切に願う。特別に聡明でなくていい。何かに秀でていなくてもいい。無邪気に遊んだり泣いたりする五歳の幼児の姿を期待した。
 この児童養護施設で自分がコントロールできない何かが進行している思いが消えない。あの子が施設に来て以来、不安で園長の体重は減り続けている。
 お昼近くだった。その保育士が画用紙を片手に、前年度分の領収書を整理していた園長の前までやって来た。足音からして何か急いで知らせたい事が持ち上がったのだろう。ところが彼女は無言で、しかも一方的に子供が描いた絵を机の上に広げたのだ。仕事中の上司に対する態度じゃない。年齢だって親子ほど離れているのに。せっかく束ねた領収書が散らばってしまうじゃないの。ムッ、と腹が立った。何も説明しない方が相手に強いインパクトを与えると、彼女が勝手に判断したのが明らかだ。だから敢えて、すぐには画用紙に目を落としてやろうとはしなかった、ところが--。
 「えっ」思い通りにはなるまいと身を構えた園長だったのに、反射的に驚きの声を漏らしてしまう。
 絵そのものは五歳ぐらいの子供がクレヨンで描いた稚拙なものだった。花壇に咲いた花を写生したに違いない。特徴的な形だから種類も分かる。ところが、その植物は異様にも全体が真っ黒に塗り潰されていたのだ。
 なんで、一体どうして? チューリップが真っ黒なの。 
 保育士の声には相手の反応に満足した響きがあった。すっかり自分の発見に興奮しているらしく、まるで我が子を友達に自慢する口調に聞こえた。「あの子ったら、地面に映ったチューリップの影を描いたんだって。どう、凄くない? ねえ」
園長の女は若い保育士の言葉遣いを窘める気にも、また子供の非凡さに感心する彼女に同調しようという気持ちにもなれなかった。それどころか、いきなり頭から冷水を浴びせられたみたいに戦慄が全身を貫いた。

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古賀千秋は勤務時間が終わって、白いスターレット・ターボが停めてある駐車場へ向かっていた。日報を書くのに時間が掛かってしまい、養護施設を出ると辺りは薄暗くなっていた。
また明日になれば会えると分かっていても、あの子と別れるのが辛い。引き取って自分の子にしたいという気持ちが、日々どんどん強くなっていく。
バッグからウォークマンを取り出して、イヤフォンを両耳に着装する。本体のONスイッチを押すと反応がなかった。音が出ない。
え、やだ。これって、またソニータイマーかしら。保証期間が過ぎたと思ったら……。
ON/OFFのスイッチを押し直そうとして、身を屈めたところだった。後ろから誰かが駆け寄ってくる気配を感じた。緊張が走った。以前にレイプされそうになった恐怖が蘇る。
あいつだ。鶴岡の野郎だ。間違いない。え、もう刑務所から出てきたの? 早すぎない? 脱獄したんだ、きっと。そんなにヤりたいのか、あたしと。ふざけんじゃねえ。お前みたいなチビには意地でも体を触らせてやるもんか。
自動車の頭金を出してもらう交換条件として下着姿の写真を撮らせてやったんだ。サービスのつもりで悩殺ポーズを取ったら、バカの鶴岡は興奮して抱きついてきやがった。
今回は仕返ししてやるからな。襲われっぱなしの古賀千秋じゃないんだ。咄嗟にポケットに入れてあった護身用のボールペンを握った。
これを買ったときから早く使ってみたかった。チャンス到来。背中を丸めてウォークマンを確認したお陰で、相手の一撃をかわすことができた。反撃だ。正当防衛だから何をやっても問題ない。
「てめえ、ぶっ殺してやる」前につんのめった童貞男に向かって、古賀千秋は後ろから護身用のボールペンを思いっきり振り下ろしてやった。命中。しっかりした手ごたえを感じた。えっ。
「こ、こいつ、……女じゃないの?」

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 女は病院の白いガウンを脱ぐと、男の服に着替えた。サイズは思った通りピッタリ。この貧相な中年男を選んだ唯一の理由が、それだ。その場しのぎだが、これで自由に外を歩ける。
 男は気を失っていた。そいつの財布を取り出して中身を確認してみる。まあ、これっぽっち。千円札が数枚しか入っていない。出来るだけ早く次の協力者を見つける必要がありそうだ。

 女は黒い軽自動車の横に倒れている中年男に助けを求めたとき、下着を取って白いガウンだけを着て小声で言い寄った。うっすらと乳首が見えていたはずだ。
 「ねえ、お願いがあるんだけど……」
 男は中年で明らかに独身。病院の警備員として働いていた。これまで女性と親密に話したこともないような感じだ。こいつは利用できる。不健康に痩せてる感じ。体の大きさも同じぐらいで、こいつの服なら着られそうだ。
「何だよ」
「子供を預けてある養護施設を見に行きたいの」
「どうして? 無理だぜ、ここから勝手に出て行くなんて」
「夜だったら何とかなるんじゃないかしら。朝までには戻れば誰にも知られないで済むでしょう」
「そうかもしれないけど、難しいぜ。それに子供の施設を見たって何の意味もないだろう?」
「いずれ引き取りに行くんだけど、場所が分からないのよ。どんな所に住んでいるのかも知りたいし」
「ふうむ。でも俺は手伝えないぜ。やったら犯罪だ」
「見つからなければ大丈夫よ」
「そりゃ、そうだけど。俺は嫌だ。やらない。ほかの奴に当たってくれよ。何も聞かなかったことにしてやるから」
「あなたに頼みたいの。お願いだから」
「どうして、俺なんだ?」 
「信頼できそうだから」
「よく言うぜ。俺のことなんか何も知らないくせに」
「あなたの仕事ぶりを見てれば誰でも分かるわよ、しっかりした人だって」
「うふ、本当かよ。嬉しいことを言ってくれるぜ」
「だから、お願い」
作品名:黒いチューリップ 14 作家名:城山晴彦