黒いチューリップ 14
このことは妻の香月には黙っているべきだと思った。息子の拓也とそっくりな子供が養護施設にいたなんて言ってみろ、きっと見に行きたいと言い出すに決まっている。何か面倒なことが起きるに違いないのだ。
そうなると従業員を養護施設へ行かせるのはマズかった。拓也くんにそっくりな子供を見ましたよ、なんて得意になって香月に報告する様子が目に浮かぶ。しかし誰かに車検を取ったスターレット・ターボを返しに来させないといけない。
運転をしながら、身の周りにいる仲間で仕事を手伝ってくれそうな奴を頭で探す。最初に浮かんだのは磯貝洋平だが、すぐに排除した。一緒に遊ぶには楽しいが、弱みを握られたら面倒なことになりそうだ。
他に何人かの名前が挙がったが、よく考えると、すべてが妻の香月に媚を売ろうとする連中だった。安心して任せられるのは一人もいない。
携帯電話が鳴った。うわさをすれば何とやら。磯貝からだった。「もしもし」
「おい。今日、どうする」いきなり訊いてくる。あいつらしい。
「え、どうするって?」
「決まってんだろ。『ショー・ガール』だよ」
「ウソだろ。金曜日に行ったばっかりじゃないか」
「それがさ、マリアンから電話があって、また会いに来てくれって言うんだ」
「そんなの当たり前だろ。向こうは商売なんだから」
「いや、オレに気がありそうな雰囲気だったぜ。分かるんだ、なんとなく、彼女の口調でさ。うふ。で、お前、どうする」
「行かない。今日はダメだ。ほかに用事があるんだ。売り上げの伝票とかも整理しなきゃならないし」
本当のところは、見たいテレビ番組が二つ同じ時間帯で放送するのだ。『渡る世間は鬼ばかり』をビデオで録画して、『世にも数奇な女の人生 愛と憎しみの芸能界 女の羅朱場SP』の方は見るつもりでいた。こういうゾクゾクするタイトルは見逃せない。
「そうか」
「誰か他の奴を当たってくれ。オレは行けない」
「わかった。そうする。でも考えが変わったら電話してくれ」
「うん。だけど期待はしないでくれよ」
呆れた奴だ。携帯電話を閉じるなり順平は思った。ちょっとポロシャツの上からオッパイを触らせてくれただけなのに、もうフィリピンの女に夢中になっていやがる。『オレに気がありそうだ』って、バッカじゃねえのか、あいつ。
いや、……待てよ。付き合ってやる代わりに、仕事を手伝ってもらうってのも悪くない考えかもしれない。
恩を売った形にすれば、もし息子とそっくりな子供を見たとしても、真っ直ぐ香月のところへ行ったりしないはずだ。まずはオレに言ってくるだろう。また、その子供と顔を合わせない可能性だってある。それを期待したいが。
コンビニに寄ったりして少し時間を潰す。直ぐに電話を掛け直したりすれば、あいつはヘンだなと思って疑う。そういう奴だ。
会社に着くまで待った。駐車場にスターレット・ターボを停めると助手席のシートから携帯電話を取り上げ、順平は着信履歴の一番上のところを押した。
98
若い保育士が黒いツナギ服の男に車検の費用や自動車のキイを渡すところを、児童養護施設の園長が事務室の窓を通して見ていた。不安は募るばかりだ。その思いが自分の痩せた体を更に貧弱に見せているらしい。最近よく、「どこか具合でも悪いんですか」と人から訊かれる。
私用で中古車の業者が施設内に入ることは知らされていた。それは問題ない。園長を悩ませていたのは保育士の五歳の子供に対する愛情の注ぎ方だ。まるで普通じゃなかった。今もそうだが、いつも一緒にいる。溺愛と言っても過言じゃない。それが毎日どんどん酷くなる。いくら忠告しても彼女は聞く耳を持たなかった。
園長は十九歳になる我が子のことを考えた。口に出して言うことはないが、自慢の息子だと心の中では常に思っている。自分なりに一生懸命に愛してきた。それ故に叱ったり、喧嘩したりすることも数多い。だけど、それが普通じゃないだろうか。あの若い保育士の接し方は、どこか変だった。
中学では息子のクラスメイトで優秀な生徒だ。それが友達に唆されてやった万引きを切っ掛けにして成績が落ちていく。結局は君津商業へ進むのが精一杯だった。卒業すると駅前のパチンコ店で働き始めた。半年もしないで夜の仕事に移る。金遣いが荒くて、とうとう高収入が期待できる風俗店へ面接に行く。娘の素行に困り果てた両親が相談に来て、手を差し伸べることにした。いい子だっただけに立ち直ってもらいたい。物欲に囚われないで自分を大切にして生きることを諭した。この施設で二年間勤務させてから、保育士の免許を受けさせた。
合格してくれて良かったが、保育士として相応しくないぐらいに男友達が多かった。いつも仕事が終わると外に誰かが待っていてデートに行く。毎回のように人が変わった。他人のプライベートに口出しはしたくなかったが、注意すべきだと判断した。あまりにも男女関係が激しい。
ところが手遅れだった。その前に事件が起きてしまう。写真撮影を許した男に乱暴されたのだ。大声を上げてレイプされるまでには至らなかった。スターレット・ターボの頭金を出したのに抱かせてもらえなかった男の欲求不満が爆発した形だ。近くのローソンへ、全裸に近い姿で逃げ込んで助かった。中学の頃からカメラが趣味だった男は警察に強制猥褻で逮捕されて懲役刑に服している。
これからは生活態度を改めるように、しっかり注意した。そして護身用のボールペンを買って持つべきだと助言を与えた。普段は筆記用具で、いざとなれば車の窓ガラスを割れるし、強力な武器にもなる便利な品物だ。他の職員、特に若い女性スタッフには強く勧めていた。
反省した表情の保育士の口からは、もう一度に付き合う男性は三人以内にします、という言葉が出てきた。
呆れてモノが言えない。じゃ、これまで同時に何人の男と付き合ってきたの、と聞き返したかった。
男の子は五歳になって乳児院からこの児童養護施設へ送られてきた。何か問題があって両親に育ててもらえない幼児が辿る通常の移動だ。しかし園長だけは、その子供に関係する書類には記載されていない事実を聞かされていた。なんて、おぞましい。
あの子の母親は中学校の美術教師だった。魅力的な女性で、大勢の生徒たちから慕われていたらしい。ボーイフレンドも何人かいたようだが、未婚のまま双子の男児を出産。しかし一人は死産。傷心だったには違いないだろうが、その後に彼女が起こした行動とはどう考えても結びつかない。
産婦人科の保育室で赤子に母乳を与えていたのが、母親が最後に見せた正常な姿だ。近くにいた助産婦が電話で呼び出されて――イタズラ電話だったらしい――戻ってくると、その母親は隣に寝ていた他人の赤ん坊の首を鋭利なナイフで切り裂き、逆さに吊るして流れ落ちる鮮血を自分の子供に浴びせていたと言うのだ。書類では、母親は心神喪失で施設へ収容としか書かれていなかった。
作品名:黒いチューリップ 14 作家名:城山晴彦