黒いチューリップ 14
「いや、待ってくれ。俺には出来ない。いくら頼まれても、それだけは出来ない。この仕事を失うわけにはいかないんだ。やっと雇ってもらえた身なんだから。それに、やったとしても、俺に何の利益があるんだい?」
「あたしを自由にしていいわ」
「……」
「好きなように料理してほしい。好みのタイプなの、あなたが」
「……マジかよ」
「だから頼んでいるのよ。あなたと親しくなりたいの、あたし」
「……」
「もう少しで退院できると思う。そしたら一緒に暮らしてもいい」
「本気で言ってるのか?」
「当たり前でしょう。初めてよ、こんな気持ちになったの」
「ふうむ」
「子連れの女だけど、それでも良かったら、あなたに尽くすわ」
「ちょっと考えさせてくれないか」
「いいわ」
「朝までには絶対に帰ってくるんだったよな」
「もちろん、当然でしょう」
バカな奴だ。この世に、お前みたいな男に股を開く女がいるかしら。ちょっと煽てただけで、すっかり信じて本気になってる。呆れて物が言えない。男なんて騙すのは簡単。それも不細工な奴になるほど特に。
当日の夜中、トイレの窓から外に出ると警備員の黒い軽自動車のトランクに身を隠して施設を出た。しばらく走って停車すると、トランクから出してもらう。男の茶色いコートを白いガウンの上に着て助手席に座った。久しぶりに外の景色を見る。すごく新鮮に感じた。
トイレに行きたいと言って人気のない公園まで走らせた。車を降りたところで、隙を見て男の後頭部を病院から持ち出した懐中電灯で思いっきり殴った。気絶させるのが目的だったが、死んでも構わない。あたしが自分の目的を達成する為には、何人か犠牲者が出るのも仕方ないことだから。
死んじまったかしら。倒れている男の口元に、屈んで耳を近づけた。生きている。呼吸をしていた。こいつ目が覚めたら、どうするだろう。警察に直行するか。それとも黙って自宅へ帰って頭の傷の手当をするんだろうか。そうして欲しい。いくらバカでも、警察へ行けば患者の逃走を助けたと罪に問われるのは分かるはずだ。しばらくは黙っていてほしい。病院は翌日から大騒ぎだ。警察が来て患者の逃走経路が判明するまで数日は掛かるだろう。女としては遠くへ逃げる時間が稼げるのだ。
騙されたと知った中年男の落胆する姿を見てみたいが、それは出来そうにない。いい気味。お前の損害は頭の傷と財布から抜き取られた数千円だ。それで現実の厳しさを教えてもらえたんだから安いもんよ。女患者の色仕掛けに唆されて脱走を助けたなんて、恥ずかしくて誰にも言えない。せいぜい悔しい思いを味わいなさい。あはは。
幸せな家庭を持ちたい。それが女の願望だった。十四歳で両親を失う。成人してからは理想の男性を求め続けたが、裏切られてばかりだ。悪魔の子まで産ませられた。でも諦めてはいない。きっと幸せな家庭を築く。
女は悪魔の子供を出産する代わりに永遠の美貌を手に入れた。それが取引きだった。今は病院から逃走したばかりで悲惨な姿だが、すぐに元に戻ることを確信していた。それも以前よりも美しく。この痩せ細った身体も、男たちが目を丸くするぐらいの色気を発散するように蘇るのだ。
子供は引き取りに行かない。愛情を感じなかった。無理やり産まされたんだから当然だろう。あれがいては理想の男を掴まえるのに障害になる。
まだ復讐も終わっていなかった。父親の不倫相手だった女の娘、以前は親友だった女を捜し出すのに失敗していた。そいつの娘を失明させたいと考えていたのに、間違った女生徒にペナルティの白い粉末を飲まし続けてしまう。佐久間渚じゃなかった。もう一人の女子生徒だったのだ。母親の良子という、在り来たりの名前に翻弄されてしくじった。
男の服に着替えた女は公園から歩いて国道へ出た。街灯の下に立つと、通り過ぎていく車に向かって、長い髪を風になびかせながら手を挙げ続けた。ヒッチハイクだ。タクシーは金がないし、足がつくから使わない。
夜の空気は冷たかったが気持ちよかった。思いっきり吸い込む。
そして体に残っていた病院の嫌な臭いを吐き出す。次第に希望が湧いてきた。今度は上手くやろう。いい男を見つけて絶対に幸せを掴むんだ。
何台目かで若者が乗るようなクーペタイプの青い乗用車が停まってくれた。女は運転席に急いで近づくと言った。「悪い男に追われているのよ。お願いだから助けて」
助手席に座ると、期待通りに車は急発進。背もたれに痩せた身体を預けると、ハンドルを握る二十代らしき男に微笑んで見せた。「ありがとう。なかなか素敵な車じゃない」相手の嬉しそうな反応を見て、すでに自分の美貌が蘇りつつあるのを知った。この若い男は使えそうだ。
安藤紫は自由を取り戻す。
進行方向の遥か遠く、黒い空に白さが滲んでくるのが見えた。まるで希望の明日に通じる扉が開こうとしているみたいだった。
END
but continued to
黒いチューリップ the final 『中古車』
作品名:黒いチューリップ 14 作家名:城山晴彦