黒いチューリップ 14
事件を知ったときは信じられなかった。野良猫にエサをやったりする優しい娘という印象しかなかったからだ。大人の男を殺すほどの腕力の持ち主とは、とても見えない。
聞いた話では――順平は仕事柄いろいろな人との付き合いがあって沢山の情報が入ってくる――彼女は中学二年の頃に義父から性的虐待を受けていたらしい。毎晩のように寝ているベッドの中に手を入れられて体を触られ続けた。思春期の女子中学生にとって悪夢の毎日だったに違いない。とうとう耐え切れなくなって反撃に出る。義父は股間に大怪我を負い病院に運ばれた。治療した医者が通報して警察沙汰となり母親は離婚した。
ところが義父だった男は、それで初々しい処女の肉体を諦めるような奴じゃなかった。一年も経たずに、夜の仕事をしている麗子の母親の目を盗んで、再び彼女の部屋へ忍び込んだのだ。
パジャマを脱がされた篠原麗子は抱きつかれて無我夢中で抵抗した。もみ合いになって、気がついたら義父だった男は窒息死していたという。
現場には証言とは辻褄が合わない不自然なところも少なくなかったらしい。死んだ男の手首には手錠が掛けられていた痕があったりと。警察が問い詰めると彼女は涙声で、「ものすごく怖かったので何も覚えていません」と答えるだけだった。
なかなか事件の検証が終わらない。過剰防衛を疑われ始めた娘を守るために母親は弁護士を雇うことを決めた。その費用を捻出しようと、男と離婚する際に譲り受けたグリーンのベンツを板垣モータースに売却したのだった。
もう一つは山岸たち三人が起こした事件で、殺されたのは中学時代にクラスメイトだった土屋恵子だ。実は彼らは二年B組のときから彼女に恐喝されていたらしい。家が全焼して彼女が袖ヶ浦市へ引っ越すまで続いた。これで解放されたと山岸たちは安心する。ところが木更津市にある私立中央学園高校に進学して再び同じクラスで顔を合わせてしまう。土屋恵子は途切れた一年前までさかのぼり、それに利息まで付けて一括請求した。とても高校生三人が支払える金額ではなかった。また悪夢の日々が始まる。もはや彼女を殺すしか自分達は自由になれないと結論した。
日曜日の夕方、袖ヶ浦公園に誘い出した土屋恵子を、三人は金を支払う代わりにバットで殴りつけた。積もった鬱憤を晴らすかのように痛めつけて息の根を止める。死体の身元を分からなくする為に彼女の顔に灯油をまいて火をつけた。ところがだ、まだ死んではいなかった。気を失っていただけだ。土屋恵子は激しく身体を回転させ、燃える顔面を押さえながら断末魔の叫び声を上げる。山岸たちはパニックになり、結局その場で三人が駆けつけた警官に逮捕された。
考えてみると二年B組に在籍していた生徒に、いい話はほとんどなかった。
これから自動車を引き取りに行く、その相手もクラスメイトの一人で、学級委員長をしていたほどの頭のいい女子生徒だった。ところが中学二年の三学期に富津のジャストでワコールの下着を万引きして補導されてしまう。警察では一緒にいた友達の小池和美に唆されたと涙ながらに供述した。小池和美の方は警備員を突き飛ばして大怪我を負わせた上に取調べでは一貫して黙秘を続けた。
警察から連絡を受けた両親は慌てた。何とか穏便に済ませたい。
同じ二年B組にいる新田茂男の母親とは家族付き合いで、彼女は養護施設の園長をしている関係で、教育委員会や警察に知り合いが多くいた。家の恥を忍んで助けを求めた。
結局、補導歴は残さないという形で落ち着いたが、噂は学校中に広まった。それを境に、将来を期待されていた女子生徒の成績が落ちていく。委員長も辞めた。三年生になって生徒会長を決める選挙に立候補してカムバックを計ったが、結果は惨敗だった。勉強はしなくなり、ボーイフレンドを作っては遊びまくる生活になった。卒業すると商業高校へ進み、その後は、新田茂男の母親の計らいで養護施設で勤務しながら保育士の免許を取得した。
中学の時あれほど子供は大キライだと公言していた女、その古賀千秋が保母をしている。人生なんて分からねえな、と順平はしみじみ思う。
「あれっ」
養護施設に着くと、すでに門のところで古賀千秋が待っていてくれた。幼い子供と手をつないでいる。車検の白いスターレット・ターボも横に停めてあった。
順平が思わず驚きの声を漏らしたのは、その子供の姿を目にしてだ。
どうして、ここに拓也がいるんだ?
おかしい。息子は妻の香月と一緒に家にいたはずだ。今日は千葉の三越へ買い物に行くとか言っていたのに。
順平は軽自動車のヴィヴィオを停めてドアから降りるところで声が出なくなった。お前、こんなところで何をしている、と息子に言うつもりだったのが――。
「板垣くん、おはよう。今日は、どうも有難う」
「……」
「おはよう。板垣くん、どうかしたの」
「い、いや。な、何でもない……おはよう」
「あら、元気ないじゃないの。板垣くんらしくない」
「ちょっと……、その、……風邪気味なんだ」
息子じゃなかった。そっくりだが息子の拓也ではない。どこかが違う。
幼い子供であるはずなのに順平を睨みつけていた。威圧するような鋭い視線。お前は何も言うな、そんなメッセージが伝わってきそうだった。
姿こそ人間だが、何か違う存在に思えた。不気味な力を持ていそうだ。それが敵意を剥き出しにしている。順平の防衛本能が警告を発した。その子供に近づくな、危険だ。
「へえ、めずらしい。早く治しな。ところで、昨日なんだけど、小池和美から電話があったのよ。びっくりしちゃった」
「え、あの、……少年院送りになった?」
「そう。その、小池和美よ。やっと出所したらしいの。あたしと話がしたい、だって」
「へえ。やっと出られたのか。で、どうするんだ?」
「会ってやるつもりよ。あの子って、なかなか使い道があるんだ。何でも言う事は聞くし、あたしには絶対に逆らわないから。ダサい女だけど、パシリとして付き合ってやるには申し分ないの」
え、でも……ちょっとヤバくないか、それって。お前ら二人が中学二年の時に万引きで補導されたのは、同窓生なら誰でも知っている事実だ。だけど古賀千秋は自由の身なのに、小池和美の方は主犯格として長期少年院へ送られた。その結果に彼女は納得しているんだろうか。また以前と同じように付き合うなんて、普通じゃ考えられない。会わない方がいいと思うけどな。しかし順平の口から出てきた言葉は逆だった。「そうだな。それがいい」
自分の気持ちを正直に伝える余裕はなかった。この場から早く立ち去りたい。「悪いけど、ちょっと急いでいるんだ」車検の代金と彼女の車の鍵を受け取る。なんとか手が震え出すのを堪えた。
「三時過ぎには戻って来られると思う。じゃあ、失礼します」言葉は事務的で、いつもの愛想の良さはなかった。
お客の車に乗り込んでエンジンを掛ける。アクセルを踏む前にウンドウを下げて古賀千秋に会釈したが、努めて幼い子供を見ないようにした。
養護施設から遠ざかり国道へ出るまで落ち着かなかった。気がつくと汗びっしょりだ。このスターレット・ターボを返しに来るのはイヤだ。あの子供に二度と会いたくない。従業員の誰かに行かせよう。
作品名:黒いチューリップ 14 作家名:城山晴彦