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黒いチューリップ 14

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「……」いや。香月の方は、お前のことを全然そう思っていない。それだけは確信が持てた。
 香月はオレの浮気を知っていたのか。それなのに怒るどころか山田道子に自分が着ていた下着まで渡したとは……。
 いつかはセックスさせてもらえると期待していたが、これでその可能性も消えたようだ。なんて女だろう。セックスする気もないのにオレと結婚したのか、あいつ。
 「ねえ、今度いつ会える?」
 山田道子が起き上がって甘えるように順平の体にもたれ掛かる。 
「……」自分が置かれた状況を考えると、答えてやるどころじゃなかった。
「ねえ、順平ちゃん、たら」
「お前、香月を孕ました男が誰か知っているか?」
 親友と言うくらいなら、もしかして付き合っていた男の話をしているかもしれない。そう思って訊いてみた。
 「うん」
「誰だ? 上級生かよ」
「ううん。クラス・メイトよ、二年生の時だった」
「えっ、じゃあB組の男子なのか、もしかして?」そ、そんな香月の気を引くようなイカす奴がいたか?
「そう」
「誰なんだ」
「黒川くん」
「えっ、誰だって?」
「黒川拓磨よ」
「し、知らねえ。そんな奴いたか、B組に?」
「うん。でも一月に転校してきて、もう三月には学校に来なくなったから印象は薄いかもね」
「どんな奴だった?」
「普通の男子よ」
「なんで、そんな奴と香月は寝たんだろう?」
「その時の勢いじゃないかしら。気がついたらセックスしていたって感じかな」
「……ふうむ」それが何でオレと付き合っていた時には起きてくれなかったんだ。「で、そいつは転校して行ったのか?」
「あたしは詳しいこと知らないけど、多分そうじゃないかしら。順平くん、本当に覚えていないの?」
「うん。どうしてだか分からないけど、中学二年の三学期のことは何も思い出せないんだ。気がついたら三年生になっていたっていう感じさ」
「でも順平くんは、教室の前の廊下で転んで病院に運ばれたじゃない。それも覚えていないの?」
「オレが?」
「そうよ。たしか土曜日なんだけど、二年B組の生徒のほとんどが教室に集まっていたらしいの」
「土曜日なんかに、どうして?」
「知らない」
「お前もいたのか?」
「……いたかも」
「どういう意味だ、それ」
「そこまで覚えちゃいないわ。一年近くも前の土曜日に何してたなんて。日記を付けているわけじゃないし」
「……」
「あんた、大丈夫?」
「ああ。だけどオレが病院に運ばれたなんて初めて知ったよ」
「そう……」
寄り添っていた山田道子が身体を離し、まじまじと順平の頭部を見る。何と思っているのか明らかだ。この人、中学二年のときの転倒で脳に障害が残っているんじゃないかしら、と疑っているのだ。見下すような目つきだった。
もしかして、これがチャンスになるか。わざと馬鹿を装えば、こいつは呆れて別れてくれるかもしれない。
しばらく二人はベッドの上で黙っていた。痺れを切らして口を開いたのは彼女だった。「ねえ、今度いつにする?」
「……」やっぱりか。しつこい女だ。さっきから、そればっかり訊いてくる。
 
 山田道子との関係は中学三年の三学期から始まり、五年経った今でも、どんなに順平が別れたいと願っていても続いていた。
 妻の香月とは形だけの夫婦だ。しかし彼女の美貌とスタイルの良さは板垣モータースという会社に箔を付けた。商売が上手く行っているのは順平の頑張りだけでなく、彼女の存在も大きかった。
 「きれいな奥様ですね」と誰からも順平は羨ましがられる。悪い気はしなかった。そこで香月には、中学校でクラスメイトだった篠原麗子の母親から買い取ったグリーンのベンツ E320 アバンギャルドを使わせることにした。妻の美しさに一層、磨きがかかった。
 産まれた子供はやっぱり男の子で、香月が一方的に拓也と名付けた。自分の子ではないから、もちろん似てはいない。
必ずやってくれと強要された『血の儀式』は、頭の弱い小僧を探し出して実行した。従業員として雇って、前後不覚になるほど酒を飲ませてから産婦人科病院へ連れて行く。新生児室で酔いつぶれて、目を覚ました時には殺人犯だった。
 父親に似ていないので、順平の両親も初めは、なかなか孫として認めようとはしなかった。しかし子供は驚くほど賢く、表情が豊かで愛嬌があった。板垣家が孫中心の生活に変わるのに時間は掛からなかった。
 理性で考えれば順平の精子で賢い子が産まれるわけがない。子供は言葉を覚えるのが早かった。絵も稚拙ながらも見事に描いて才能を窺わせるものがあった。板垣家の血筋では芸術に秀でた者は皆無だ。目鼻立ちも父親とは違う。それなのに順平の両親は孫を溺愛した。人に自慢できるということが不都合な事実を全て無視させてしまうのだ。
 「拓也は必ず立派な人物になるぞ。あの幼さで、もうすでに強い意識を持っているような感じがしてならない。きっと出世する。俺は協力を惜しまないからな」
 そこまで父親に言われてしまうと、「本当は自分の子じゃないんだ」と順平は告白できなかった。
 両親は家や土地の権利書を妻である香月の名義に変えてしまう。そんな大事なことを手続きが終わってから知らされる。更には、会社の代表取締役も香月にさせたいようだった。それら全てが孫の拓也の為と思っての行動だ。
 板垣家の一人息子という存在感がどんどん薄れていく。不安を覚えた順平は、セックスした後で山田道子にさり気なく言ってみた。こういう大切な問題を話す相手が自分の身近には、『女性セブン』と『週刊宝石』で得た知識がすべてだと信じている女しかいないと実感したときは辛いものがあった。友達や仕事の仲間はいるが、どいもこいつも人に言い触らしそうな奴ばかりだ。最も親しく付き合っているのは、うちの会社で働いていた磯貝洋平だったが、こういう場合こそ最も信用してはいけない男だっだ。弱みを見せたら最後、そこからどんどん甘い汁を吸おうとしてくるのだ。
 別に大したことじゃないという態度を装って言ったつもりだが相手の反応は大きかった。
 「えっ、嘘でしょう。あんた、それってヤバいよ。もし香月に捨てられたらどうするの? あの家から出て行かなきゃならなくなるよ。へたすりゃ、会社にもいられないから」
「まさか、そんなことには……」反射的に言葉が出てきただけで自信はなかった。
「バカ言ってんじゃないよ。あんたたちの間にはセックスがないんだよ。つまり愛情っていうものがないんだ。もし香月に好きな男ができたらそれまでだよ……、きっと」
「……」
 その通りだった。

 もし香月に捨てられたらオレはどうなるんだろう。この家から追い出されてしまうのか。
 ほとんど愛情を感じない、飾りだけの存在である妻の香月に家の財産を握られていると知ると、さすがに不安を感じ始めた。
 人生なんて何が起きるか分からない。
 最近、切実にそう思える。中学時代にクラスメイトだった連中が殺人事件を二つも起こしてからは、順平は将来に対して楽観的ではなくなった。
 君津南中学校二年B組から二つの殺人事件だ。
 一人は篠原麗子で、母親と別れた義理の父親を正当防衛という理由で殺している。
作品名:黒いチューリップ 14 作家名:城山晴彦