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黒いチューリップ 14

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 教頭は歩調を速めた。ところが何だろう。加納先生の顔から笑みが消え、懸念の表情へと一変する。どうかしたのか。
 「危ないっ、教頭先生」
 え? と思った瞬間、何かが自分の頭をかすめて勢いよく飛んでいった。ボールでも当たりそうになったのだろうか。その場に教頭は頭を抱えてしゃがみ込んだ。幸いにも痛みはなかったが。
「大丈夫ですか」加納先生が駆け寄ってきてくれた。
「ああ、何でもない。一体、何が飛んできたんだ?」
「カラスです」
「……」この言葉に教頭の身は竦んだ。
「いきなりカラスが教頭先生に向かって急降下してきたんです」
「……そ、そうか」
「気がつくとカラスが教頭先生の頭上を旋回――」
 教頭は急いで立ち上がった。「加納先生、もう大丈夫だ。もう、何でもない」声が大きくなってしまう。苛立ちが隠せない。早く彼女を黙らせたかった。その鳥の名前を口にしないでほしい。
 「だけど、あのカラスったら――」
「うるさいっ。もう、わかったから」
「……」
「もういい」
「そ、……そうですか」
 彼女の顔から親しみが消えた。態度の豹変に戸惑っているに違いない。すべてがぶち壊しになったと教頭は悟る。「怒鳴ってしまって悪かった。すまない。ちょっと驚いてしまったものだから」それでも、こう続けないではいられなかった。「加納先生、今の事はここだけの話にしてほしい。絶対に誰にも言わないでくれないか」
 ほかの教職員に知れたらどんな噂話が立つやら。それが怖い。 
 「わかりました」
 彼女の返事には意に逆らって従う不満の響きがあった。当然だろう。もはや加納先生と仲良くなることは難しいかもしれない。きっと自分との距離を置くはずだ。取り返しはつかない。本郷中学の教頭にとって最悪の朝になってしまった。
 
   96

 訳が分からない。あの教頭先生の態度は理解に苦しむ。あんなにも簡単に感情を露わにする人とは思わなかった。たかがカラスが飛んで来たぐらいで。それもだ、カラスと聞いた途端に震えだしたりして。
 これから三年Α組の生徒たちと初めて顔を合わすというのに、加納久美子は本郷中学に居心地の悪さを感じた。
 同僚の先生たちは普通に挨拶をしてくれて歓迎の言葉も添えてくれた。しかし何か腑に落ちない。何か大事なことを隠されているような気がしてならなかった。
 時間になって加納久美子は教頭先生に連れられて自分が担任を務める教室へと向かう。足取りは重かった。二人の間に会話はない。
 クラスは三階にあって窓からは校庭の隅々まで見渡せた。最初に教頭先生が紹介してくれたが言葉数は少なかった。この場から早く立ち去りたいという気持ちが窺えた。
 教頭先生が教室から出て行って教壇に一人になると少し気が楽になった。「みなさん、おはようございます。今日から三年Α組の担任になりました加納久美子です。よろしく」
 一呼吸して生徒たちの顔を見る。みんなが笑顔だ。このクラスはまとまりがあって教えやすいと聞いていたが、その通りらしい。「みなさんの顔と名前を一致させたいので、さっそく出欠を取ります」
 静かだ。意味のないジョークを飛ばして注意を引こうという生徒はいない。久美子は名簿を開き、あいうえお順になっている名前を読み始めた。「青木大輔」
「はい」
 久美子は声のした方向に目をやり、生徒の顔を確認する。「伊藤信行」
「はい」
「石橋涼」
「はい」
「植木哲也」
「はい」
 十五人いる男子生徒の名前が終わりに近づいたときだった、窓の外で物音がした。バサっという紙の束が地面に落下したみたいな響き――。「あっ」A組の生徒たちを前にして久美子は驚きの声を上げてしまう。
 見ると、窓の外側にある手すりに黒い鳥が一羽とまっていた。久美子は瞬時に思った。教頭先生を襲ったカラスに違いない、と。これって、どういうこと? まさか、――そんな。教頭先生に急降下したのは偶然じゃなかったの。
 次の瞬間、加納久美子の全身が凍りつく。
 生徒たちは笑顔のままだった。誰一人として窓に振り向いた者がいない。物音は聞こえたはずだ。ど、どうして? 何人かの女子生徒が軽い悲鳴を上げても不思議じゃないのに。全員が新しい担任教師に顔を向けて無言で先を促していた。
 これは、……どうして。久美子は次第に息苦しくなっていく。つらい。身体に力が入らない。無理そう。これが終わったら早退したい。せめて出欠だけは最後まで……。
 「渡辺」やっと次の男子生徒の苗字を口から搾り出す。が、すぐに声が出せなくなった。先が続けられない。まさか……、これも偶然じゃないのかもしれなかった。力を振り絞って名前を呼んだ。「拓磨」
「はい」
 不安は的中。声には聞き覚えがあった。悪寒に包まれながらも返事をした生徒を目で捜す。息苦しさと共に心臓の鼓動が早くなっていく。窓側の最後列、そこに半年前に加納久美子を犯そうとした少年の姿があった。取り逃がした獲物を再び見つけたような目で笑っていた。
 う、嘘でしょう? ……信じられない。

   97  5年後 2004年 アテネ五輪 4月                       

板垣順平は来月で二十一歳になる。まだ若いが親が所有する中古車販売店『板垣モータース』の経営を一切任されていた。父親が体を壊して、ほとんど会社に出てこられないからだ。この商売に入って五年が経つ。体格が大きいので若造に見られてバカにされることもなく、最近では経営者としての風格さえ漂わせていた。仕事には好都合だ。
セールスをするのに学歴は関係ない。大切なことは頼りになりそうな外見と説得力ある話し方だ、そう確信していた。
 扱う車種は出来るだけ国産の人気車種に限った。利幅は小さくなるが商品の回転は早くなる。同じ車が長々と展示場に置いてあるのは客にいい印象を与えない。外車は極上モノが安く仕入れられるときだけ買い取る。現在、店にはブルーと紫のBMWが二台あった。
 板垣モータースのサービスとして、お客が買ってくれた自動車が車検になれば、午前中に勤務先まで取りに来て、夕方の終業時間前には全ての手続きを終えて,洗車までして返しに来るというのがある。これは順平のアイデアだった。別料金でエンジン・オイルやATFの交換もする。整備工場まで車を持って行く必要がないので好評だ。もう何人かの客が、なかなか融通の利く店だと言って親戚や友達を紹介してくれた。ほかに従業員二人とアルバイト一人を雇うだけの小さな会社だが、同業他社が厳しい経営を強いられる中でまずまずの売り上げをキープしていた。
 今日も近くの児童養護施設で働く保母さん――正確には保育士と言うらしいけど――の車検がきたスターレット・ターボをピックアップに行くところでスバルの軽自動車を走らせていた。
 このヴィヴィオはビニール・シートが早くダメになるところ以外は気に入っている。特にCVTがいい。この軽自動車が客の代車となる。当然だが常に満タンにしてあった。お客が代車を使おうとした時にガソリンが少ないと印象は悪くなってしまう。小さいことだが、ここが肝心。商売とは基本的に人と人の繋がりだ。愛想の良さと、細かいところに手が届くことを心掛けていた。
作品名:黒いチューリップ 14 作家名:城山晴彦