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黒いチューリップ 14

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 加納久美子は本郷中学の駐車場に愛車フォルクスワーゲン・ポロを停めると、さっそく携帯電話のメールをチェックした。着信音が鳴ったのは運転中で、すぐに開いて読むことが出来なかったのだ。
 『おはよう。きっと素晴らしい一日になる』
 うふっ、やっぱりだ。思わず笑みがこぼれる。メールをくれたのは君津署の波多野正樹刑事だった。
 久美子は返信した。『メール、ありがとう。勇気もらった』
  
 あの事件から半年が過ぎて季節は秋になっていた。異様な出来事であると地区の教育委員会も判断して、加納久美子には特別に年内の休養を認めてくれた。と同時に君津南中学からの移動も決まる。本来ならば本郷中学には来年の三学期から赴任すれは良かった。二学期の途中から教職に戻らなければならなくなったのは、引き継ぐ予定だった三年Α組の担任教師が急に体調不良を起こして仕事を続けられなくなったからだ。
 外に出てフォルクスワーゲンのドアを閉めたところで、本郷中学の教頭先生が歩いて近づいて来るのに気づいた。白髪のオールバックが似合う初老の紳士だ。女子生徒に人気があると評判らしいが、まったく不思議じゃない。





   95

本郷中学の教頭は朝一番に学校に来て、教職員たちの当日のスケジュールを確認するのが常だった。校長に次ぐ地位に就いて初めて赴任した学校でもあり、この本郷中学を愛していた。
 海と山が近くにあって自然には恵まれている。ほのぼのとした教育をするなら、ここしかないと言えた。教師に反抗したりする生徒は一人もいない。イジメの報告もなかった。これまで大きな問題や事件は何も起きていない。平和な田舎の中学校といった感じだ。
 今日は新しく加納久美子先生が赴任してくる日だった。教育委員会が催す地域の会合で何度が彼女とは顔を合わせている。
 彼女に対する教頭の印象は良かった。知性的な美しさに惹かれていた。話し方や態度で独立心の強い女性であることも窺えた。新しい考え方を持っている人に違いない。きっと気が合いそうだ。同僚として迎えられることが嬉しかった。
 自分が若ければ彼女を恋愛の対象として見ただろう。だけど現実では歳は倍近くも違う。父親が娘を思う気持ちで接してやろうと思っていた。
 教頭は加納先生が使うことになっている机の前に立った。掃除が行き届いているか確かめたかった。本郷中学の第一印象が悪くなっては困る。
 無意識にも、この席を使っていた三年Α組の担当だった教師のことを思い出して、すぐに後悔した。あいつのことは早く忘れたい。
 あの男が職場を離れる表向きの理由は体調不良だったが、それは
教育委員会が決めたことで、問題を大きくしたくないという意図が
ありありとしていた。事実は言葉ひとつで言い表せるほど簡単なものではなかった。いろいろと世話をしてやった思いがあるだけに、教頭は裏切られたという気持ちが強かった。
 どうしてあんなことになったのだろう、と考える教頭を現実に引き戻したのは聞き慣れない自動車のエンジン音だ。駐車場にダークブルーの小型車が入ってくるのが窓越しに見えた。加納先生の車に違いなかった。左ハンドルのマニュアル車と聞いたが、そんな自動車をサングラスで運転する女性教師なんて初めてだ。イカしてる。年甲斐もなく心が浮き浮きしてきた。
 駐車場まで迎えに行こうか。だけど、こちらの好意を見透かされそうで恥かしいな。いいや、構うもんか。今日は初日だ。特別な日なんだ。
 職員室から出て行こうと体の向きを変えたところで、机の引き出しから白い紙が一枚はみだしているのに気づく。嫌な予感が過ぎった。まさか。教頭は手を伸ばして、その紙を取り出す。胃に痛みが走った。やっぱりだ。

 『カラスが見ている。カラスが見ている。カラスが見ている。カラスが見ている。カラスが見ている。カラスが見ている。……』
  
 同じ文句が幾つも紙一面にぎっしりと書かれていた。あれほど処分したのにまだ残っていたのか。それとも誰かが保管していて、わざと一枚を机の引き出しに戻したのだろうか……。
 いいや。
 そんな悪戯をしそうな職員は一人もいなかった。いや、待てよ。新しく養護教員として赴任した東条朱里という女はどうだろう。なんとなく掴みどころのない人物だ。しかし彼女は事の経緯を知らないはずだった。
 わからない。何が、どうなっているのか。浮き浮きした気分は一変に吹き飛んだ。この学校に続く平穏無事な日々が崩壊していくような気がしてならなかった。
 三年Α組の担任だった男性教師は早稲田大学を卒業していて、将来は校長の椅子が約束されたようなものだった。性格は良く、誰からも好かれた。そんな男が、ある日突然だが別人になる。
 その朝、顔を合わせても挨拶がなかった。どこか具合でも悪いのか、と誰もが思う。ところが彼は自分の席に座ると一心不乱に何かを書き始めた。授業にも出ない、食事も取らない、声を掛けても返事をしない。夕方五時過ぎまでレポート用紙に向かっていた。
 何かが職員室で起きているらしい、と生徒たちが気づくのに時間は掛からなかった 一人の教師の奇行が職員室、いや、学校全体を異様な雰囲気に包んだ。
 夕方、男性教師が何も言わずに自宅に帰ると、すぐに同僚たちの視線が教頭に集まった。どうなっているんですか、全員が無言でそう問い掛けていた。ふざけんな、オレが知るわけないだろう、と言い返したいところを我慢して教頭は立ち上がり、恐る恐る彼の机を調べに行く。男性教師が一日を通して書き続けたレポート用紙数枚が散乱していた。文面を読もうとした教頭の背筋を悪寒が貫く。
 すべてのレポート用紙に同じ文句が連続して、ぎっしりと余白がないほど書かれていた。「狂っている」教頭は思わず口にした。
 男性教師の奇行は続く。職員室で机に向かって同じ文句を書き続けた。大声を出すわけでもなく、また凶器を振り回すわけでもなかった。表情のない蛇のような目が、もはや彼が別人であることを物語っていた。
 職員室にペンが紙面を滑る音が途切れなく続く。同僚たちは彼と目を合わせたくないので物音を立てまいとする。ストレスは大変なものだった。体調不良を訴える者が日を追うごとに増えていく。
 こういう事態に校長は全く役に立たなかった。普通の人間に対しては偉そうな言葉を並び立てるが、狂人を前にするとどう対応していいのか分からず、ただオロオロするばかりだった。教頭は一人で教育委員会と掛け合い、男性教師を自宅待機という形に落ち着かせたのだ。本郷中学に平和を取り戻したと同僚達からは感謝された。
 その甲斐あって素敵な女性教師を後任として迎えられる。今日がその日だった。教頭は気を取り直して職員室から外へ出て行く。
 ブルーの小型車から降りた加納久美子先生が、こちらに気づいて笑顔で会釈してくれた。
 「おはようございます、加納先生」
 白いブラウスに紺色のタイトなスカート姿だった。すごく似合っている。スタイルもいい。ああ、若い女性っていいな、と心から思ってしまう。これから毎日、出勤するのが楽しくなりそうだ。さっきまでの不安だった気持ちが、すっかり癒される。
作品名:黒いチューリップ 14 作家名:城山晴彦