黒いチューリップ 13
布団に倒れたままの女たちには、その場で飛び上がってニー・ドロップで止めを刺す。落下する勢いで和美の膝頭には100キロ近い重さが集中しているはずだった。骨が折れるような音と感触を味わった。意識を取り戻して起き上がった奴らには、また強烈なラリアットを食らわせた。
ああ、楽しい。こんなに自分が強いとは気づかなかった。もう楽し過ぎて気が狂いそう。気分はスタン・ハンセン。あたしは最強。もっと、もっと、暴れ捲くってやろうじゃないか。
無抵抗の連中に次々と襲い掛かる。やりたい放題。プロレス技を思い出しては、身体が覚えるまで何度も練習。今夜たった一晩でズブの素人から世界タイトルを狙えるぐらいの立派なプロレスラーになってやろう、という意気込みだ。様々な状況の中で反射的に手足が動いて、プロレス技が出てくるようにならなきゃダメだ。時間を忘れて無我夢中。窓の外が明るくなるまで続く。全員を叩きのめして一息つこうかと思ったところだった、部屋の隅で小柄な女が身を潜めているのに気づく。朝日のお陰だった。
ブルブルと震えていた。獰猛なライオンでも見るような目で和美を警戒している。動物園に来て、何かの間違いか、飢えたライオンの檻に一緒に閉じ込められてしまった小学生みたいだ。
あはっ。こりゃ、愉快。
和美の視線に気づくと、もうこれ以上は小さく出来ないというところまで身体を縮こます。首を激しく横に振って、こっちに来ないでと合図を送ってきた。無傷のままで、ひっそりと隠れていたらしい。ただし一部始終を見ていて小池和美の凶暴さは目に焼きついている。
獲物だ。まだピンピンしてる。たっぷり遊べそう。
女は恐怖で泣いていた。目で慈悲を訴えてる。無理に怖がらせたりはしない。ゆっくり小池和美は笑顔で近づく。「お願い、許して」その言葉に優しく頷いてみせた。と、急に身体を反転させて、勢いよくローリング・ソバットを女の左脇腹に炸裂させた。「ぎゃっ」
痛みに身を屈めて倒れそうになる女を、パジャマの襟を掴んでリングの中央まで引っ張ってきた。抵抗しなかった。もう、されるがままだ。そいつの首根っこを掴むと、腰を支えながら身体全体を空中に垂直になるまで持ち上げた。効果を高めるために滞空時間を長くする。そして豪快にブレーン・バスターを見舞う。小柄な女は布団の上に頭から落ちて気を失ったようだった。それを無理に立ち上がらせる。うしろに回り、痩せた背中を抱えて、次はジャーマン・スープレックス・ホールドを決めた。ジョー樋口の代わりを務めてくれるような気の利いた奴がいないので、カウント3はなし。どこまでやるかは和美の気持ち次第だ。もう乗りに乗っていた。真っ赤なGOサインしか見えない。とことんやってやろうじゃないか。
小柄な女は体重が軽いのでプロレス技の掛け放題だ。練習するにはうってつけ。倒れたまま動かなくなると、ジャンピング・エルボー・ドロップを何度も何度も何度も連打で浴びせてやった。咳をしながら口から真っ赤な血を吐き出しても容赦はしない。こいつが死のうが構うもんかい。あたしが一人前になることの方が大切なんだから。この時の小池和美は元NWA世界ヘビー級チャンピオン、テキサス・ブロンコこと、あのドリー・ファンク・ジュニアになりきっていた。
その小柄な女は出所が間近で、和美に制裁を加えることには強く反対した一人だったと後になって聞かされる。これでもかと色々なプロレス技を掛けられて、二度と自宅には帰れない体になってしまう。
ストレート・ヘアで細面だった顔は、陰毛が生えたジャガイモみたいになった。変わり果てた姿に、病院に駆けつけた八度目の離婚調停中の母親も、「うちの娘じゃありません。知らない子です」と言い張る始末だ。おぞましい異様な姿に、近づいて良く見て確かめようともしない。
女は流動食しか受けつけず、呼吸は酸素ボンベの助けが必要だった。顎の骨が砕けて泣くことも満足に喋ることもできない。しばらくして病院から障害者施設へと移って行く。
この乱闘で小池和美は自信と勇気を得た。やってみたかったプロレスの技をすべて試す。ジャイアント・スイング、四の字固め、コブラツイスト、パイル・ドライバー、アルゼンチン・バックブリーカー、ダブルアーム・スープレックス、ランニング・ネックブリーカー・ドロップ等だ。どの技が自分にしっくりくるか、少しでも意識のある女を無理やり起こして、プロレスレごっこを続けた。結果として十八番技と言えるのが、やはりラリアットとエルボー・ドロップだった。
翌朝、女子少年院は大騒ぎとなった。小池和美を除いて部屋の全員が重傷を負っていたからだ。自力で起き上がれるのは一人も居ない。内出血で全身が紫色の斑点だらけ。骨折、内臓破裂、重度の打撲と酷い裂傷。ほとんどが人間としての原型を留めていない。首や手足は考えられない方向へ曲がっている。何台もの救急車が駆けつける事態となった。
施設は県や家庭裁判所への報告義務があった。しかし真相が明らかにならない。多くが口を閉ざす。説得すると何人かは口を開いたが、「あたし達が仲間割れを起こして、夜中には大喧嘩になったんです。小池和美さんは関係ありません」という腑に落ちないものだった。
若くて美しい教官が無傷の和美を個室に呼んで問い質すことになった。
「夜中に何があったのか教えて」
「知りません。あたしは疲れて寝ていましたから」いつもと違って教官の口調はきつかった。和美は身構えて話すことにした。
「嘘だわ。みんながあれほどの大怪我をしたっていうのに眠っていたなんて」
「あたし、熟睡するとなかなか目が覚めないんです」
「……」教官は信じていない。和美のことを見つめながら核心を突いてきた。「あなた一人で皆に大怪我を負わせたの?」
小池和美も真剣に見つめ返して、ゆっくり落ち着いて答えた。「いいえ、違います」そのとき、ラリアットで連中を叩きのめした感触を思い出して、僅かに笑みがこぼれた。
「……」それで十分だったらしい。教官は事実を理解したみたいだった。一瞬だが机から身を引く。その目に畏敬の念が宿ったのを和美は見逃さない。この子って凄い、そう読み取れた。
嬉しかった。初めて人から認められた気分だ。教官みたいな素敵な女性になりたいという気持ちは消え失せた。あたしはあたしだ。これからは女スタン・ハンセンとして生きて行く。
女子少年院は居心地のいい場所になった。歳は関係なく誰もが小池和美を恐れて、媚を売るようになった。ここでは女王だ。あたしが一番偉い。
よく同じことを訊かれた。「和美さん、あの凄い技は何て言うんですか?」いつも答えは決まっている。「カズミ・ラリアットって言うのさ。あたしが考え出したんだよ」そして相手から賞賛の言葉を全身に浴びるのだ。
この施設にずっと居てもいい。そんな気持ちにもなったが、やはり復讐という大きな仕事が頭から離れない。それなら早く娑婆に出ないと。
じゃあ、どんな方法で実行するか。
殺しはしない。古賀千秋は生かしておく。死んだら、それで御仕舞いだ。それじゃ面白くない。ただし苦痛を伴って、だ。
作品名:黒いチューリップ 13 作家名:城山晴彦