黒いチューリップ 13
「そう。それなら安心したわ」不安がなくなると東条朱里は態度を一変させた。「よかった。あんたなら、きっと上手くやれる。あたしね、信じているから」
「……」
「ねえ、聞いてくれる」本来の、お喋り好きな女に戻っていく。「あたし、本郷中学に転勤することが出来たんだけどさ。それが傑作なのよ。教頭の高木に頼みにいったんだけど、それがバカみたいに、『あのなあ、転勤は地区の教育委員会が決めることなんだ。キミが行きたいからと言っても自由にはならん。それに第一、そんな権限は私にはないから』、なんて真面目くさって言うのよ。だから、あたし言い返してやったんだ。『もちろん、そんな事は知っています。でも、どうしても本郷中学へ転勤しないと困るんです。何が何でも教頭先生には協力してもらいますから』って。あたしもこの時とばかりに、思いっきり強気に出てやったんだ。『この件については、あたしの指示に従ってもらいます』って傲慢な態度で付け加えたの。そしたら、さすがに怒り出したわ。『何だって? おい、言葉に気をつけないか。立場を考えなさい』だって。あたしの思う壺よ。そこでポケットから、あの虫の死骸を幾つか出して机の上にバラ撒いてやったの。高木のバカったら椅子から飛び上がって後退りしたわ。あははっ。笑えるでしょう? そのあとは子供みたいに身体を震わせて泣いてんのよ。ざまあみろって」
「……」
「あんた、ねえ、人の話を聞いてんの?」相手が期待した反応を見せないので、東条朱里は居心地の悪さを感じ始めた。
「……」
「いいわ。そろそろ帰るから」
東条朱里は椅子から立ち上がった。「そうだ。あんたの決心が揺るがないように、これを置いていくわ」そう言うと、バッグの中から白いチューリップを取り出し、飲み水が入ったコップに差した。「きっと二度と会うことはないかも、あたしたち。うふっ」
92
万引きから始まって窃盗、詐欺、恐喝、傷害と多くの犯罪を犯してきた十七歳の少女が女子少年院に送られてきた。一ヶ月の考査期間を終えて単独室から集団室へと移り、一週間が過ぎた。新入りだったが先輩たちに頭を下げることはしない。挨拶も教官が見ていなければしなかった。いずれ近いうちに前から集団生活をしていた十一人を支配する気でいた。当然だろう。犯してきた犯罪の数では誰にも負けていない。暴力団との繋がりを仄めかす為に左肩には刺青が彫ってあった。無口で態度は大きく、周囲を恐れさせようとしていた。ここを仕切るのは自分だからな、と宣言するのも時間の問題だった。
三度目の点呼が終わり、部屋の鍵が外から閉められて数十分は経っていた。これから長い夜の始まりだ。
「起きな。お前に話があるんだ」と枕元で十七歳の少女は呼ばれた。明かりは消されて部屋は薄暗い。馴れ馴れしい言葉遣いにムカッときて、勢いよく布団から上半身を起こした。「おい。てめえ、誰に向って口を利いて――」
少女は最後まで言葉を終わらせることが出来なかった。いきなりタオルで後ろから顔を巻かれてしまったからだ。咄嗟に逃げようとしたが、多くの手に抑えられて身動きは取れなかった。「うむっ、うう」息が出来ない。苦しい。
「騒ぐんじゃない。大人しくしていないと殺すよ」
その言葉に十七歳の少女は抵抗を止めた。「あっ」罠だった。相手はタオルで巻かれた頭の上にビニールを被せてきた。完全に空気が遮断される。頭の中が真っ暗。どんどん意識が遠くなっていく。下半身が漏れた尿で生暖かく感じたのが最後だった。
「うっ」頬を引っ叩かれて少女は意識を取り戻す。先輩たち十一人に取り囲まれていた。その場に正座するように言われた。後ろにいる何人かは顎まで下げられたビニールの端を手にしていて、いつでも少女を窒息させる準備ができているのが分かった。恐怖が身体を包む。あんなに苦しい思いは二度としたくない。
「お前、どうしてこんな仕打ちをされるのか分かっているだろ?」
少女は素直に頷く。「すいません」謝罪の言葉が口から出た。
「あたしたちを甘く見るんじゃないよ」
「……」部屋の連中は、何も出来なくて大人しくしていたわけじゃなかったらしい。自分に制裁を加える機会を窺っていたのだ。
「ここには、ここのルールってもんがあるんだ。それを今から教えてやろうじゃないか」
「……」
「起床から消灯時間までは施設のルールに従う。一番偉いのが所長で二番目は教官、その次が部屋のリーダーだ。分かるな?」
「はい」
「消灯時間からは部屋のルールに変る。つまり、あたしが一番偉くなるのさ。それを忘れるんじゃないよ」
十七歳の少女は目の前に立つ、あどけない顔をした大柄な女を見つめた。
意外だった。体こそ大きいが年下のはずだ。数日前に教官から、入所して三ヶ月も経たない新人だと紹介してくれた女じゃなかったか。へんてこな眼鏡を掛けているので気持ち悪い奴だと完全に無視していたのだ。それがどうして一番偉く……。名前は……えーと、確か……小池? そうだ、小池和美とか言った。十四歳だ。思い出した途端だ、その年下の女が飛び掛ってきた。正座の姿勢だったので避けられずに攻撃をまともに食らう。「ぐうっ」彼女の太い左腕が顎に当たると、十七歳の少女は再び気を失った。
小池和美はジャストでの万引きで警察に補導された。友達の古賀千秋が捕まりそうになって、後ろから女の警備員を階段の下へ突き落とす。仲間が上手く逃げてくれるのを見届けようとして、自分が逃走するチャンスを失った結果だ。
男の警備員に押さえられて店の事務所に連れて行かれた。名前や学校を聞かれたが何も言わない。警察署での取調べでも一貫して黙秘を続けた。証拠はない。盗った物は何も持っていない。黙っていれば家に帰れると考えたからだ。
口を閉ざしながら和美は勝利感に酔っていた。古賀千秋を助けられたことが本当に嬉しかった。
突き飛ばした女の警備員が階段の踊り場に頭を強く打った音に、千秋は気づいて振り返った。一瞬で何が起きたのか理解すると、和美に向って笑顔で頷く。同時に右手の親指を立てて見せた。(ありがとう)という合図だ。
やった。
古賀千秋に恩を売ることが出来た。あたしの存在価値を認めてくれたはずだ。これからは対等な立場で接してくれるかもしれない、そう小池和美は期待した。
勝利の喜びは、取調べで古賀千秋も捕まったことを知らされると一変に消えた。それでも黙秘は続く。義務感からだ。何か喋れば千秋に不利に働く、と思った。
女の警備員は重傷を負ったらしい。意識が朦朧としたまま救急車で病院へ運ばれたと聞かされた。悪いことをしたという思いは和美の頭に浮かばなかった。友達を捕まえようとした警備員の方が悪いんだ。余計なことをしやがって。
警察から鑑別所へ送られて、長期少年院送致が決まる。えっ、マジで? ああ、早く家に帰りたい。一体いつまで掛かるのかしら、と思っていたら最悪の結果だ。黙秘を続けたことが反抗的と見なされる。決定的だったのは突き落とした警備員が半身不随の障害者になったことだったらしい。
作品名:黒いチューリップ 13 作家名:城山晴彦