黒いチューリップ 13
ここも君津南中学校に負けないぐらい大混乱になりつつあった。
三時間後、逃げ回るのに精根尽きた秋山聡史が見つかったのは二階の女子トイレの中だ。よっほど暑かったのか、学生服を床に脱ぎ捨て、チューリップがプリントされた女性の下着姿だった。
90
いつ、映画『メリーに首ったけ』を観に行くんだろうか?
その後は奥村真由美から何の連絡もなかった。早くしないと上映が終わっちまうんじゃないのか。そんな不安が鶴岡政勝の心に芽生えていた。
誘われた直後は鮎川の交通事故あって、罪悪感から積極的な行動が取れなかった。それと、のぼせ上がった姿を曝け出して自分が安っぽい男と見られるのが嫌だった。
鶴岡政勝は頻繁に女の子から電話がある男子生徒という印象を、奥村真由美には持ってもらいたい。舞い上がった気持ちを知られたくないので、こっちから電話をすることは避けた。彼女から連絡が来るのを辛抱強く待つ作戦だ。
鮎川の交通事故で富津中学との試合は出場できたが、内容は散々だった。0-5のスコアで大敗。一方的だった。ボールを支配されて、シュートを打たれ放題だ。鶴岡政勝だけじゃない、チームの全員が精彩を欠く。不思議だったのは、惨めな試合が終わっても誰も悔しがっていなかった。帰りのワンボックス・カーの中で口を利く奴はいない。ボーッと景色を見ているか、携帯のゲームに集中しているかだった。付き添いの森山先生だけが、「お前ら、どうしちまったんだ」と一人で息巻いていた。
救いは、奥村真由美がサッカー部のマネージャーを辞めていたことだ。無様なプレーを見られなくて済んだ。オレに対する好意に傷がつくことはなかった。翌日の朝に彼女から試合の結果を訊かれた時は、「ダメだった。やっぱり佐野隼人がいないと、チームの連係が上手く行かない。板垣じゃ代わりは務まらないよ」と、敗戦の責任は板垣順平にあるように仄めかした。
もうサッカーなんて、どうでもいい感じになっていた。写真の撮影の方が楽しい。綺麗に撮ってあげて、女の子から喜ばれるのが嬉しかった。カメラを構えて美人に見える絶妙な角度を探す。そして光を調節して影を巧みに使う。本人よりも美しく写真に収めるのは高度なテクニックが必要だ。難しいだけに遣り甲斐があった。
奥村真由美ガールフレンドになってくれたら、絶対にモデルになってもらう。あのスタイルの良さだ。セクシーな水着の写真を撮りたい。早く一緒に映画を観に行きたかった。
日時の打診が来たら、ちょっと間を置いて、手帳なんかを調べる様子を装いながら、「あー、良かった。丁度その日は空いてる」と答えるつもりだった。
しかし彼女から二度目の電話はなかなか来なかった。とうとう痺れを切らした。鶴岡政勝は自分から電話をすることにした。
「今さっき思い出したんだけど、一緒に映画を観に行く約束はどうなった?」こう切り出そう。
携帯電話を開くと、不思議なことに彼女から着信履歴が消えていた。間違って消してしまったか? まさか、あり得ないぜ。不思議に思ったが、仕方なくサッカー部の連絡表を見ながら彼女の電話番号を押した。緊張で体が震えそう。
「もしもし」奥村真由美の美しい声。
「鶴岡だけど」もう喉がカラカラ。だけど悟られてはならない。
「え、鶴岡くん? あら、どうしたの?」
「あのさ……」ちぇっ。奥村の奴、すっかりデートのことを忘れているみたいな感じだ。すっげえ、がっかり。
(あっ、ゴメンなさい。いろいろと忙しくて、いつ映画に行こうか決められなかったの)
こんな言葉が返ってくるのを期待していたのに。失望を声に表さないようにして鶴岡政勝は考えていたセリフを口にした。
「え、……どういうこと?」困惑気味の奥村真由美だった。
「どういうことって? 一緒に映画を観に行く約束をしたじゃないか?」なんか話が噛み合っていない。すっげえ、焦る。
「あたしが?」
「そうだよ。電話で『メリーに首ったけ』を観に行こうって誘ってくれたじゃないか」どうなってんだよ。一から説明しなきゃならないなんて。悲しくなってくるぜ。
「それって、あたしじゃないよ。だって『メリーに首ったけ』は、先週だけど鮎川くんと行ったもん。退院したら一緒に映画でも観ようって約束したのよ。すごく面白かった」
「……」もはや死刑宣告に等しい言葉。もう絶望的だ。最悪のシナリオ。「なあ、その鮎川が交通事故に遭った日だよ、電話してくれたじゃないか?」ここまで詳しく説明すれば思い出してくれるか。
「知らない。あたし、電話なんかしていないから」
「マジかよ」そこまでシラを切る奥村真由美という女が信じられなかった。そんな奴じゃないと思っていた。「でもな、黒川だって知っているんだぜ」仕方なく証人の名前を出した。こっちは第三者が証言くれるんだから。もし法廷に立てば損害賠償だって請求できるはずだ。オレの精神的苦痛を考えたら十万円でも足りないぜ。畜生。せめて、いきなり電話した正当性だけは認めさせたい。
「え、誰? 黒川って」
「おい、おい。黒川拓磨は……、あのさ……」
「うん。誰よ、その人」
「……ちょっと、待って」……お、思い出せない。
「どうしたの?」
「いや、……」どうなってんだ?
「え?」
「わからない」
「どうしちゃったのよ、鶴岡くん?」
「す、すまない……」
「なによ。もう切るよ、忙しいから」
「う、うん」
一方的に通話を切られても、鶴岡政勝は携帯電話を持ったまま動けなかった。奥村真由美とは恋人同士にはなれそうにない。それが明らかになった。しかし衝撃を受けているのは、黒川拓磨という生徒を名前のほかは全く何も思い出せないことだった。顔や体型も分からない。そいつがいつから二年B組の生徒になったか、そして何で今は存在しないのか、それらの理由がハッキリしない。黒川拓磨って一体誰なんだ? 鶴岡政勝の方が訊きたいぐらいだった。
91 1999年 10月
「しくじったのは、あんただけだよ。どうするのさ。アバズレの五十嵐香月だって、ちゃんと双子を産んだのにさ」
「……」
「やっぱり、あんは呪われた女らしいね。妊娠したことが間違いだったんだ」
東条朱里は産婦人科病院に見舞いに来て、産まれた双子の一人が死産だったことを初めて知った。失望と怒りに駆られて、同僚だった美術教師に辛辣な言葉を浴びせ続けた。「子供が一人じゃ意味ないでしょうが。ろくでもない普通の子にしか育たないわ、きっと」
「ごめんなさい」
「謝って済む問題じゃないよ」
「……」
「せっかく、こうして――」
「なんとかする」相手は言葉を搾り出すように言った。
「え?」
「なんとかするわ」
「なんとかするって、……どうすんの」東条朱里は疑いの目を隠さない。
「考えたの」
「あんたが?」
「ええ」
「……ふうむ」どれほど相手の決心が強いか推し量ろうとして、しばらく東条朱里は何も言わなかった。「きっと大変なことになるでしょうね」
「わかっている」
「覚悟は出来ているの?」
「……」元同僚は無言で頷く。
「あんたに出来るの? 誰も助けてくれないよ」
「大丈夫」
「じゃあ、任せていいの? でも失敗は絶対に許されないよ」
「ええ」
作品名:黒いチューリップ 13 作家名:城山晴彦