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黒いチューリップ 12

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 高木は腰を落とす。そして自覚した。もはや小学校でルー・テーズのように無敵だった頃の自分はいない。あれから三十年という月日が経ち、胴回りが三十センチも増えていたことを考慮すべきだったのだ。
 気を失う直前、うつろな目に映ったのはビンビンに立つ黒川拓磨のペニスだ。それに向かって倒れ込む。自分の唇が触れそうになるところを、それだけは何とか体を捻って避けた。

   80
 
 「教頭先生っ」加納久美子は叫んだ。
 目の前で高木教頭が膝蹴りと二発のパンチを浴びてなす術も無く倒されてしまう。まさに秒殺だった。慌てて助けに向かおうとしたが思い止まった。自分もやられてしまう。ここは逃げるしかない。職員室まで行けば助けを呼べる。久美子は身体を翻して階段へと急いだ。「えっ」
 足音がする。また誰かが二階から上がってきた。
 「あっ、お母さん」黒川拓磨の母親だった。家庭訪問の時と同じで、緑のトレーナーにピンクのスエット・パンツ姿だった。何で、こんな時に、こんな所へ? 「早く逃げてっ」
 「こらっ、拓磨。何やってんだいっ」母親が叱る。
 息子が怖いと言っていたにも関わらず、その口調は強かった。「逃げて、お母さん」いくら母親でも無理だと思った。息子はオオカミのように野獣と化している。もう性欲しか頭にないのだ。加納久美子は母親の手を取って一緒に逃げようとした。
 違和感を覚えた。え、どうして? 同時に母親も久美子の手を取ったが、その力が強すぎる。これじゃあ、自由が利かなくて逃げにくい。「お母さん?」
 ところが母親は久美子の方を見ようともしない。息子に向けて放った次の言葉に背筋が凍りついた。
 「拓磨、この程度のアバズレなんかに手間取ってんじゃないよ。早く、ヤっちまいなったら」
「お、お母さん」
「黙れっ。手こずらせやがって、このアマ。パンティを脱いで、拓磨に向って股を広げるんだよ」
 乱暴な言葉と同時に平手打ちも飛んできた。「いやっ」親からも殴られた事がない久美子だった。身体から力が抜けていく。
「いや、じゃないよ。すぐに気持ちが良くなるさ。さあ、拓磨。捕まえててやるから、この女の下着を脱がしな」
 もう目の前に黒川拓磨が立っている。「ああ、お願い。許して」絶望感が久美子を包んでいく。
「大人しく拓磨に抱いてもらいな、このアバズレが」
 チノ・スカートの裾に黒川拓磨の手が掛かった。腹部まで引き上げられて下着姿の下半身が露わになる。久美子は目を瞑るしかなかった。生徒に犯される、それも学校で。身体は震え出し、もはや抵抗する気力は失せていた。
 「お前のお陰で忌々しい鏡は手に入った。もう処分したよ。これで拓磨が怖がるモノは何もなくなった」
「え、……あたしのお陰って?」どういうこと? わからない。
「そうさ。お前は踊らされていたんだよ。鏡を手に入れるのに利用したのさ。お前が思い通りに動いてくれたんで大いに助かった。ありがとうよ。お礼に拓磨の子供を妊娠させてやろうじゃないか。あはは」
「……そんな」絶望感が久美子を襲う。生徒の手がパンティを掴んで、腰から剥ぎ取ろうとしていた。唇を噛んだ。覚悟した。少しでも早く苦痛が過ぎ去ってくれることを願うしかない。
 「ぎゃあっ」 
 ボコッ、という何かがぶつかる音と共に母親の叫び声がした。久美子は驚いて目を開けた。何が起きたのか分からない。死んだ魚が放つような腐敗臭が鼻を突く。自分を捕まえていた母親の手が離れた。久美子の後ろに誰かいるらしく。そっちに向かって黒川拓磨が身構えていた。今なら、自由だ。慌てて身体を回転させて、この場から廊下の隅に逃げた。「あっ」

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 波多野は気を失う一歩手前で反撃を試みる。相手を息子と考えずに最後の力を振り絞って膝蹴りを食らわせた。「許せっ」孝行の急所に命中したらしく、首を絞めていた手の力が緩んだ。
 そのチャンスを逃さない。波多野は首と息子の手の間に自分の指を滑り込ませた。これで少しは抵抗できる。だが息子の力が緩んだのは一瞬だけで、まだジワジワと波多野の首を締め上げてきた。恐ろしいほどの力だ。くっ、苦しい。いつまで耐えられるか分からない。加納先生のことを心配する余裕もなかった。
 
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 いつ現れたのだろう。黒川拓磨と母親の他に、もう一人、バットを手に持った人物がいた。汚れたトレンチコートに身を包み、顔と両手は血が滲む包帯に巻かれていた。髪は伸び放題。異様な姿だ。強烈な腐敗臭を全身から放っていた。骨格から男性だと判断できるだけで、誰なのかは分からない。
 少なくとも久美子に危害を加える存在ではないらしい。黒川拓磨と対峙し、その母親をバットで殴りつけたのだから。
 母親は両手で頭を押さえた格好で廊下の端に倒れていた。今にも階段から落ちそうだ。完全に気を失っている。
 黒川拓磨が前へ一歩踏み出そうとすると、男が動いた。バットを投げつけて、相手の動きを止めた。そしてコートのポケットからシャンプーの容器らしきモノを取り出し、そのキャップを外す。また新たに強い臭いが加わった。えっ、ガソリンだ。
 男は躊躇わない。一気に中の液体を黒川拓磨に浴びせた。容器を捨てると、すぐにポケットに手を入れ、ライターを出す。焼き殺すつもりだ。
 黒川拓磨は男が点火する前に飛び掛かった。二人が取っ組み合う格好で横倒れになる。その動きに押し出されて母親は階段から落ちていった。
 男からライターを奪おうと、その腕を激しく殴りつける。やはり腕力では黒川拓磨の方が上だった。だが男はライターを離さない。もう二人ともガソリンまみれだ。
 「ぎゃっ」腕に噛み付かれると、男は初めて声を上げた。聞き覚えがある、と久美子は思った。でも、……まさか。あまりの変わり果てた姿に確信が持てない。
 うわっ、助けて。目の前で凄惨な行為が始まった。黒川拓磨が頭を上下させながら、男の腕の肉を噛み千切り出したのだ。まるでオオカミ。見たくもないものを見せられて、ブルブルと久美子の身体が震えだす。

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 高木教頭は気を失っていたが、黒川拓磨との戦いが夢の中では続いていた。そこではワン・ツーとパンチを食らったが、反射的に伸ばした左の拳がクロス・カウンターとなって相手の顎に命中していた。一進一退だ。
 負けてなるもんか。俺は勝つ。足だ。足を使って奴を翻弄してやる。 
 高木教頭は、柳済斗にリターン・マッチでKO勝利した輪島功一と自分をダブらせていた。
 根拠のない自信が湧き上がってきて目を覚ます。やられたら、やり返すのがオレの主義だ。クソ小僧はどこへ行きやがった。今度こそ叩きのめしてやる。「畜生、よく見えない」頭から床に倒れ込んだらしい。こめかみのところが酷く痛む。くらくらして目の焦点が定まらない。ぼんやりとしか周りが見えなかった。

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 犯される。口を男の血で真っ赤にした黒川拓磨が加納久美子の前に立っていた。下半身は裸でペニスは大きく勃起していた。怖い。身体の震えが止まらない。
 腐敗臭を放つ男は骨が露わになった右腕を痛々しそうに抱えて横たわっていた。筋肉も腱も噛み千切られて、辛うじて手が腕に繋がっているという状態だ。全身が血まみれ。もう、どこにもライターは見当たらない。
作品名:黒いチューリップ 12 作家名:城山晴彦