黒いチューリップ 11
「感じるんです。持っていれば、いずれ高木先生に大変なことが起きるんじゃないかと」
「……まさか」
「何か悪い存在が、それを奪い取ろうと追いかけて来るみたいなんです」
「悪い存在? なんだい、それは」
「わかりません。でも強い霊気を感じます」
「……」鳥肌が立ってきた。夜中に押入れから物音がするのも頷ける。「きみが何とかしてくれるのか?」
「はい。知り合いの神主さんに相談してみようと思います。そこの神社で預かってもらえるといいのですが……。とにかく、どこか神聖な場所に保管すべきだと思います」
「わかった」渡りに船だ。この話に高木は乗るしかないと思った。「明日、学校へ持ってくるから受け取ってくれ」
「わかりました」
「ありがとう」高木は心から感謝した。
その女子生徒の名前は今でもハッキリと覚えている。木村優子だった。忘れるものか。
口数が少ない賢そうな生徒で、成績も優秀だった。肩まで伸びたストレートの黒髪と色白の顔が調和していた。細身でしなやか。霊感が強いと言われれば、なるほどなと無理なく頷けてしまうような雰囲気を持っていた。
あの鏡を職員室の外で彼女に渡した時は、重い荷物を肩から下ろしたような安堵感に包まれた。これからは自由に生きていける。長い刑期を終えて釈放された感じだ。
それが……、あれから何年も経ったというのに、再び悪夢が蒸し返されようとしていた。
あの鏡が原因で木村優子は亡くなったらしい。本当だろうか。信じられない。だが加納久美子が嘘を言うとも思えない。
高木将人としては二度と、あの鏡を手にしたくなかった。見たくもない。入手した経緯なんかを明かしてみろ、きっと引き取ってくれと言ってくるに決まっている。嫌だ。絶対にイヤだ。加納先生には当然だが、本当のことは言えない。知らぬ存ぜぬ、を貫き通すしかないのだ。
こんな大変な時に何でだ、という苦々しい思いも強い。高木将人は、まだ家族に株の損失を告白していなかった。カードローンからの多額の借金はそのままで、月末には口座から利息が引き落とされ続けていた。残高が底を突くのは時間の問題だ。一刻も早く助けてもらわないとデフォルトという事態になってしまう。
女房の機嫌がいいタイミングを見計らっていた。しかし、パチンコで損をしたとか背中が痛いとか、ジャイアンツが負けたとか愚痴ばかりが口から出てくる毎日で、なかなか告白するチャンスは巡ってこなかった。焦るばかりだ。
もしタイミングを間違って告白すれば、家での待遇は奴隷以下に成り下がるだろう。今ですら、飼い犬のリボンに負けているのだから。それを実感したのは、たまたま冷蔵庫にあったアイスクリームのカップを食べた後だった。リビングのソファに座ってテレビのニュースを見ながら寛いでいた。そこへ凄い形相で女房がドアを開けて入ってきた。
「あんた、何て事してくれたのよ。アイスクリーム、食べたでしょう?」
「う、うん」
「あれはリボンのデザートだったのに。二度と勝手なことはしないで」
「わかった。すまない」
「まったく、もう」女房は吐き捨てるように言うと、リビングから出て行った。
テレビでは、和歌山市の夏祭りで起きた食中毒事件の続報を伝えていたが、もう高木将人の目と耳に届かない。頭の中で、自分は食べさせてもらったことがないのに、犬のリボンにはデザートが与えられているという事実を噛み締めていた。
働き手はオレなのに、この冷たい待遇はないだろう。人生をやり直したい気持ちを強くした。
この家から出て行きたい。自由になりたかった。しかし自分は無一文だ。あるのは中学校の教頭という職業だけだ。
人生に絶望していた。すっかり髪の毛も薄くなって、実際の年齢よりも老けて見える。鏡の前に立つのが嫌だった。影で生徒たちが自分のことをハゲと呼んでいるのも知っている。腹の回りは、たっふりと脂肪が付いて中年の体形そのものだ。運動をしなくなって何年も経つ。これでは、もし魅力的な女性に出会っても恋愛を楽しむなんて夢物語だ。悲しい。
但し、……但しだ、もし金があれば、……話は別だろう。それなりに財力があれば、きっと女性が自分を見る目も変わってくるはずだ。アルマーニのジャケットに身を包めば、この身体だって見栄えは少し良くなる。
なんとか再起を図りたい。とりあえずは株の損失を鬼の女房に告白して助けてもらう。早急にカードローンの借金を帳消しにしなければならなかった。たぶん通帳とキャッシュカードは取り上げられて、二度と京葉銀行から金を借りられなくなるだろう。
だけど高木将人にはアイデアがあった。目を付けたのは、給食費とか修学旅行費として生徒たちから集めた金だ。手付かずで学校の金庫に眠っていた。旅行代理店への最初の支払いが生じるのは、まだ一ヶ月も先だった。それまでの間に、もし確実に儲かりそうな株が見つかったら……。
リスクを冒さなければ大きな利益は手にできない。男は一生に何度が勝負しなければならない時を迎える。それが高木将人の信念だった。もし上手く行ったらと思うと、頭にはダニエラ・ビアンキとジル・セント・ジョンの美しい姿が浮かんだ。
詳しく株式新聞を読む毎日が続く。安易に行動を起こす気持ちはない。犯罪行為なのだ。失敗したら身の破滅。絶対と確信が得られるまで金庫の金には手を出さない。儲かりそうな株が見つからなければ諦めよう、そんな気持ちだった。
こんな事情だから、手放した鏡のことなんか考えている余裕はない。今は、それどころじゃないんだ。加納久美子には、やっぱり思い出せないと突っ撥ねてやろうと結論を出した。
『何も起きたりするもんか。加納先生の誇大妄想だ』、と決めつけるしかない。
70
「どう思いますか?」加納久美子は電話で、これまでの経緯と桜井氏から聞かされた話を、君津署の波多野刑事に説明した。内容は大まかで五十嵐香月の妊娠については伏せた。しかし双子を身篭るという事実は重要な意味を持っていると意識していた。
「信じられないですよね?」相手の反応を促した。
「……そうですねえ」波多野刑事は言い難そうに答えた。「ですけど話して下さったことには感謝しています。知っているのと知らないのでは大きく違いますから。もし何かが起きたとしても、素早く対応できます」
「じゃ、良かった」
「加納先生」
「はい」
「十三日の土曜日は、私も学校へ行って待機しましょうか? 丁度その日は非番なんです」
「……」有難い。でも……、もし何も起きなかったら。
「何時ごろに学校へ行かれますか?」
「たぶん十時前です。早めに行こうと思っています」
「どうしましょう、僕は?」
「そうですね……、お言葉は嬉しいのですが」
「一人で行動するのは勧められませんよ」
「安藤先生がいます。彼女も事情を知っている一人です」
「しかし、……女性ですよね」
「ええ。まあ、そうですけど」
「私が学校の中ではなくて、外で待機しているというのは、どうです?」
「いいえ、そこまで。もし何も起きなかったら……」気が引ける。
「用心の為ですよ」
「待ってください。孝行くんも学校に集まる約束をした一人じゃなかったですか?」
「そうです」
作品名:黒いチューリップ 11 作家名:城山晴彦