黒いチューリップ 10
「その教師が処分に困っていた--」
「はっきり覚えています」久美子は相手の言葉を遮った。「いつか木村優子は、あるモノを高木先生から引き取って神社へ預けに行くと話してくれました」
「その、あるモノが鏡なんです」
「そうだったんですか?」
「はい。でも、ただの鏡ではありません」
「どんな?」
「黒川拓磨の正体を暴く鏡です。そして彼が最も恐れるモノが、それなんです」
「どういう意味ですか?」
「不思議な力を宿しています。その鏡で太陽の光を反射させて黒川拓磨に当てれば、彼は力を失い、枯れ果てて滅びるんです。そして鏡は彼の姿を、我々の目で見ているのとは違う容姿で映します。悪魔の姿です」
「本当ですか?」
「信じられないでしょうけど、これは事実です」
「その鏡は今、どこにあるんですか?」
「桜井先生の御主人が持っています」
「えっ、彼女の御主人が?」
「はい。桜井先生は鏡を手にしたまま焼死しました。検死が終わって、警察は遺品として夫に引き渡したのです」
「その鏡があれば黒川拓磨の正体が分かるんですね?」久美子は期待を込めて訊いた。
「そうです」
「……」その鏡を借りたい、久美子は思った。
「そこで、……私からの提案なんですが」
「はい」
「桜井先生の御主人は、ここから車で数分の所に住んでいます。海沿いに建つ、シーサイドという名前のマンションです。黒川拓磨の正体を暴くために、少しの間だけでも鏡を貸してもらえないか頼んでみたらどうでしょう」
「ぜひ、そうしたい……、ですけど自分は彼女の御主人とは面識がありません。いきなり行って頼んでみても……」
「加納さん、ここは急ぐべきです。手間取れば、それだけ黒川拓磨の影響が大きくなっていくだけだと思います。いきなり訪問することになりますが、事情を説明すれば分かってくれるんじゃないでしょうか」
「実は今度の土曜日に、黒川拓磨は学校で何かを計画しているらしいのです、それが凄く気掛かりで……」久美子は打ち明けた。
「クラスメイトを集めてですか?」
「そうらしいです」
「儀式です」
「え?」
「それは悪魔の儀式です」
「あ、……悪魔の儀式?」
「そうです。生徒たちを集めて、彼らの思考を集中させて大きな悪事を働こうとしているのです。それは絶対に阻止しなければなりません。うちの中学でも同じような出来事があって、取り返しのつかない事態を招いてしまいました」
「……」
「阻止するためには鏡が必要です。鏡があれば黒川拓磨の化けの皮を剥ぐことが出来ます。あいつの正体が明らかになれば、多くの人たちが協力してくれると思いませんか」
「はい」
「折角ここまで来たんです。行って断られたのなら諦めがつきますが、行かないで帰れば後悔するでしょう?」
「おっしゃる通りです」
「ダメで元々じゃないですか。行ってみるべきです」
「そうですね」久美子は同意した。
「簡単ですが、地図を書いておきました。これです。一緒に行ってあげればいいのですが、すいません、体調がイマイチなんです」
「あ、大丈夫です。一人で行けます」久美子は渡されたメモ用紙に書かれた地図を見ながら応えた。そうだ。もし彼女が一緒に行ってくれるなら、話は早いのにと思った。でも仕方がない。
「どうです? 分かりますか」
「……これって、国道沿いに建っていた大きな白いビルですか?」
「そうです」
「リゾート・マンションみたいに目立つ建物ですよね?」久美子は念を押す。
「ええ、それです」
「じゃあ、大丈夫です。分かります」本当だ、ここから近い。
「それで、うちの安部教頭なんですが」望月良子が話を変えた。
「はい」
「あの人は官僚主義というか、これだけの事が学校で起きたのに揉み消すのに一生懸命でした」
「……」わかります、というふうに久美子は首を縦に振る。そんな感じが電話でもしたからだ。
「世間体が悪くなるからと、問題を抱えた生徒たちの親を説得して黙らせました。警察には、不倫した女教師と保護者の一人が別れ話が拗れて焼身自殺を図ったらしいと、嘘の話をして捜査を真相から遠ざけたのです。張本人の黒川拓磨には、すべて不問にするから転校してくれと頼み込みました」
「まあ、……」呆れたと続けて言いたいところを、途中で久美子は言葉を飲み込んだ。
「転校先の中学校が大変なことになると知っていながら、うちの教頭は手続きを強引に進めたんです。君津の借家だって彼が探して手配しました。とにかく自分の経歴に傷がつくような、都合の悪いことは全て隠してしまおうという魂胆でした」
「……」久美子は頷きながら、自身も怒りで熱くなる思いだ。正義感に燃える望月良子に同調していた。
「これが教育者のすることですか? 真相を究明すべきなのに、事件を闇に葬ってしまうなんて。もう情けないやら、悔しくて悔しくて、腹が立って仕方ありませんでした。反対に教頭は何もなかったような顔をして仕事を続けています。信じられますか?」
「……」久美子は反射的に首を横に振った。
「ところがです、……」
「はい」怒りに満ちた相手の口調が急に静かになった。聞き漏らすまいとして久美子は身を僅かに前に屈めた。
「まわりの教師たちはどんな思いでいるのか、わたしは探りを入れてみたんです。そしたら驚いたことに、教頭先生と同じ態度の人たちが少なくありませんでした。後で知ったのですが、彼らは生徒たちと同じように黒川拓磨に唆されて弱みを握られ、人生をズタズタにされていたんです。胃潰瘍に苦しむ教師には必ず治る漢方薬を知っているとか、賭け事で借金ができた教師には買えば絶対に儲かる株があるとか言って、その気にさせました。夫に不満を持っていた中年の女教師には、きれいに別れられる方法があるとか言って近づいたんです。つまり黒川拓磨によって、学校全体がメチャクチャされていました。もう私一人が声を上げても何も変わらない状態だったのです。我慢して黙るしかありませんでした。もし行動を起こせば教頭に睨まれて職場に居られなくされるのは明らかです。この不景気に仕事を失うわけにはいきません」
「そうでしたか」久美子は同情した。
「でも加納さんからの電話を受けた時、すぐに黒川拓磨の件だと分かりました。やっぱり、という感じです。うちの教頭とのやり取りを横で聞いていました。なかなか引き下がらない強い女性だな、と感心しました。もしかしたら、この人なら黒川拓磨の正体を暴いて公にしてくれるんじゃないかと直感したんです。それで電話をして全てをお話しようと決心しました」
「ありがとうございます」
「加納さん」
「はい」
「黒川拓磨は怪物です。正真正銘の悪魔です。正体を暴くのは簡単ではありません。鏡は絶対に必要です」
「これから桜井氏のマンションへ行ってみます」
「そうして下さい。ちゃんと説明すれば桜井氏は理解してくれると思います。でも、もし借りられたとしても、それだけで十分とは言えません。誰か協力してくれる人はいますか?」
「はい。一緒に来る予定だった〡〡そうだ、彼女の携帯の番号を言っておきます。もし自分の携帯電話がバッテリー切れになったり、何か不測の事態が起きた場合に備えて」
「言えてます。教えて下さい。これから何回か、お互いに連絡を取り合うことになるでしょうから」
作品名:黒いチューリップ 10 作家名:城山晴彦