黒いチューリップ 10
「よろしくお願いします」
加納久美子は手帳の一ページを切り取ると、安藤紫の名前と携帯電話の番号を書いて渡した。ああ、良かった。もう少しで忘れてしまうところだった。
「わかりました。もし加納さんと連絡が取れない場合は、この方に電話します」
「そうして下さい。彼女は同僚で美術教師です。ずっと親しくしています」
「では、その方にも私の携帯の番号を伝えて下さい」
「そうします。ありがとうございます」
望月良子は無言で頷くと、コーヒーを手に取って口をつけた。その顔からは憤りの表情は消えていた。すべてを話し終えた感じが伝わってきた。
「今日は来て良かったです」久美子は言った。
「そう言って頂けると嬉しいです」
「さっそく、これから桜井氏に会いに行きます」
「上手く行くことを願っています」
「結果は夕方にでも電話で報告させて下さい」
「待っています」
「じゃあ、これで失礼します。あっ、待って。ここは私に払わせて下さい」望月良子が白い伝票に手を伸ばしてきたので、久美子は素早く横取りした。
「いいえ、そんなこと出来ません。こちらまで来て頂いたんですから」
「いいえ、払わせてください。話して下さったことに本当に感謝しているんです」
「では、せめて割り勘にしましょう」
「いいえ、私に払わせて下さい。お願いします」久美子は頑として譲らなかった。結局、相手を承諾させてテーブルを立ち上がった。
「あらっ」
「はい。そうなんです、実は」
「いつですか、予定日は?」望月良子の腹部が大きかった。
「来月です」母親になる喜びを満面の笑顔で表して答えた。
「まあ。すいませんでした。こんな大事な時に、わざわざ会って頂いて」体調が不安定なのも当然だ。
「いいえ、とんでもありません」
立ち上がってみると、身長は久美子の方が高かった。相手を先にしてレジへ向かう。その途中で望月良子は足を止めて振り返った。顔は笑顔のままだ。大きな腹部に手を当てながら、何か言い残したことでもあるように口を開く。
「うふっ、双子なんです」
「……」その言葉を聞いて、加納久美子の顔から一瞬で笑みが消えた。数日前、五十嵐香月の口から同じ台詞を耳にしていた。黒川拓磨も双子で産まれてきたらしい。偶然の一致なんかじゃない、そんな気がした。
作品名:黒いチューリップ 10 作家名:城山晴彦