黒いチューリップ 10
「どちらでも構いません」黒川拓磨に知られても別にいい、と思った。
「そうですか。では内緒にしてくれますか」
「どうしてですか?」興味が湧いた。親子の間で都合が悪いということなのか。
「拓磨には言いたくありません」
「なぜです、お母さん?」
「……」
「お母さん、教えて下さい」
「怒るんです、あたしが勝手な事をすると」
「暴力を振るうとかですか?」
「いいえ、そこまでは……」
「わかりました」久美子は了解した。
「あたし、とにかく拓磨が怖くて……」言いながら一瞬だが、母親は恐怖に体を震わせた。
「お母さん」加納久美子は看過できない何か異常なものを感じた。
「……」
「どうして、そんなに息子さんを怖がるんですか?」
「あ、あの子は……」首を振って何かを否定しようとしていた。
「お母さん、説明して下さい」
「先生。あたし、拓磨から逃げ出したくて」
「……」母親から聞く言葉じゃなかった。驚いて久美子は何も言えない。
「助けて欲しいんです」
「待って下さい。突然そう言われても困ります。事情を詳しく説明してください」
「話せば助けてくれますか?」
「……」聞きたい。しかし助けると安易に約束はできなかった。
「先生」答えを促していた。
「すべて話を聞いてみないと何とも言えません。約束できるのは、お母さんの力になれるように努力するということだけです」
「……」
「話して頂けますか?」久美子は訊いた。
「わかりました、それで結構です。あの子は、最初から自分の子とは思えなかった」
「どういう意味でしょう?」
「あたしが産んだのは事実なんですが、……何か、どうも不思議な気がしてならない」
「なぜ?」
「普通の子供とは違うような気がしました。……どう言えばいいのか、子供なのに何か強い意志と目的を持っているみたいでした」
「……」
「賢くて、あたしの子らしくなかった。すごく悩みました。ところが主人は違います。期待していた通りに、男の子が産まれて非常に喜んでいました。だから相談できなかった」
「そうでしたか」
「それに、あの子は双子で産まれてきたんです」
「えっ」兄弟がいるのか? 今どこに?
「もう一人は殺されました」
「何ですって」
「産まれてすぐです。それも病院の新生児室で」
「信じられない」久美子は思わず手で口を押さえた。「だ、誰が?」
「病院の婦長です」
「ま、……まさか」
「だけど腑に落ちない事ばかりでした」
「聞かせて下さい」
「これは主人の話ですが……」そう言うと母親は視線を逸らす。言いたくない事を、これから口にしなければならないという気持ちが伝わってきた。
「はい」久美子は促した。
「あたしを見舞いに来て新生児室の前を通りかかると、婦長がピンセットで自分の息子に危害を加えているところを見たそうです。急いで中に入りましたが、もう息子は死んでいました。主人はポケットにあった小型カッターを取り出して、怒りから婦長を刺し殺したのです」
「どうして? そんなことを」
「わかりません」
「……」あまりにも悲惨な話で、なんて言葉を掛けていいのか分からない。
「その後が大変です。主人は殺人罪で逮捕されました。少しでも刑を軽くしてもらいたくて、東京の有名な弁護士を雇ったんです。うちの実家は小さくても建設会社を経営していたんですが、多額の出費が続いて倒産しました」
「そうでしたか」
「主人は婿養子です。中学を卒業すると見習いとして入社してきました。期待はしていなかったのですが、ベテランの従業員が次々と辞めていって、それで会社の重要なポストを任されるようになります。あたしは一人娘です。新婚旅行中のことでした、両親が交通事故に遭って亡くなりました。それで主人は会社を継いだんです」
「……」なんか凄い話を聞かされている、そんな気分だった。
「五年で主人は仮釈放になります。知り合いを頼って建設作業員として働き出しました。ただ、不思議なのは……」
「なんです?」
「主人は殺された息子のことを全く悲しみませんでした。墓参りすら行きません。怒りから婦長に襲い掛かったのに、ですよ」
「どうしてでしょう?」理解できない。
「わかりません。理由を訊こうとすると話をはぐらかすんです。今は忙しい、とか言って」
「ご主人は去年の暮れに亡くなられたんですか?」確認するように久美子は言った。できたら、その理由も知りたい。
「そうです」
「ご病気ですか?」
「いいえ」母親は首を振った。
「……」それ以上は言いたくないのか。
「焼死でした」
「……」久美子は息を飲み込んだ。それなら自殺だと思った。
これ以上はプライベート過ぎて訊けないと感じた。カシオのGショックに目をやると、学校へ戻らなければならない時間になっていた。
「すいません、お母さん。授業があるので、もう帰らなければなりません。時間を作って、お話の続きを聞けるようにします。もし何かありましたら、遠慮せずに学校に電話して下さい。今日は、これで失礼します」
玄関を出ようとしたところだ、母親は吐き出すように言った。
「主人は平郡中学で死にました」
「……」加納久美子は凍りつく。「あ……、あとで電話します」それしか言えなかった。
君津南中学へ戻るフォルクス・ワーゲンの中で、ハンドルを握る久美子の手は小刻みに震えていた。なんて悲惨な話だろう。産まれたばかりの赤ん坊が新生児室で殺され、その父親は息子が通う中学校で命を断つ。理解に苦しむことばかりだ。
陸橋を下って君津市役所の交差点を右折したところで気づく。母親は息子の黒川拓磨を恐れる理由を何ひとつ言わなかった。時間がなくて、そこまで話が辿り着かなかったのか。授業が終わったら、電話しようと思った。まだ話は終わっていない。
64
「ごめん、今日は一緒に行けそうにもないわ」土曜日の早朝だった、安藤先生から加納久美子に電話が掛かってきた。いつもと声が違う。
「どうしたの?」
「風邪を引いたらしい。喉が痛くて、頭痛もして少し目眩もするのよ」
「まあ、大丈夫?」
「一日、寝ているしかないみたい」
「わかった。じゃ、一人で行ってくる」久美子はがっかりだ。
「悪いけど、そうして」
「お大事に」
「ねえ」
「なに?」
「望月さんに、あたしの連絡先も教えた方がいいと思わない?」
「……」
「もし加納先生に何かあった場合に備えてよ。あなたの携帯電話が急に壊れてしまうことだって考えられるし。だから話を理解している別の人がいると、彼女に教えておくべきじゃないかしら」
なるほど。「言えてる。わかった、そうする」
「じゃ、気をつけて行ってきて」
「うん、そうする。お大事に」
加納久美子は待ち合わせのファミリー・レストランに、約束の二十分前には到着するつもりで家を出た。国道127号線を館山方向へ、フォルクス・ワーゲンのポロを走らせながら身体が緊張していくのを感じた。いつものドライブとは違う。
え、嘘でしょう。どうして? いつもなら空いて飛ばせる道路が今日に限って渋滞していた。しばらくノロノロ運転を余儀なくされ
た。ある地点まで来ると前に繋がった自動車の先に、二台のパトカーが赤い点滅をさせたまま停車しているのが見えた。
作品名:黒いチューリップ 10 作家名:城山晴彦