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黒いチューリップ 10

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「こちらは構いません。ええ、お二人で来られた方がいいと思います」
「ありがとうございます。そうさせて頂きます。それでは--」
「待ってください」
「はい?」
「言い忘れたことがあって、電話しようと思っていたところなんです」
「何でしょう」緊張する。
「黒川拓磨の母親と話をしたことがありますか?」
「い、いいえ」会ったこともないし、電話で言葉を交わしたこともなかった。
「こちらでは、家での黒川拓磨の様子を聞こうと日時まで約束したのですが、あの事件が起きて出来なくなったのです」
「そうでしたか」
「何か強く伝えたい事があるような印象だったのですが……」
「……」
「もし可能でしたら、そちらで--」
「わかりました。彼の母親と連絡を取ってみます」
「もし話ができたら、こちらへ来たときに結果を教えて下さい」
「もちろんです」
「それだけです」
「では、土曜日に」
「はい。失礼します」
 加納久美子は携帯電話を畳むと、安藤先生に言った。「黒川拓磨の母親と話をしてみてくれって」
「会ったこと、あるの?」
「ない」
「黒川拓磨の家まで行くつもり?」
「そう。午後は空いているから電話してみる」
「がんばって」

   63

 意外だった。加納久美子はフォルクス・ワーゲンのポロを、外壁のトタンが所々に赤く錆びた家々が並ぶ一画の前に停めて唖然とした。低所得者向けの集合住宅だった。
 この中に黒川拓磨が母親と二人で住む家がある。何軒かは人が住んでいなくて、もはや廃墟に近い。五十嵐香月が住む家みたいな建物を頭に描いて、住所と地図と頼りに探したのだが当てが外れた。
 生徒の学力は家庭の経済力と比例する。収入が高いほど子供の成績はいい。それが定説だった。しかし今、唯一の例外を目の前にしていた。
 加納久美子は自動車から出て、道路に面した手前の建物の前に立った。「あれ?」表札がなかった。
 その隣の家にも同じようにない。何号とかいう建物の番号すらなかった。
 書類に目を落としたが、やっぱり黒川拓磨の住所の欄にも番地までしか書かれていない。母親は何も言ってくれなかった。久美子は午後、お昼休みが終わるとすぐに電話を掛けた。母親は家に居てくれた。
 「息子さんの担任教師をしています、君津南中学の加納という者です。失礼ですが、お母さんでいらっしゃいますか?」
「……はい」
「拓磨くんのことで、お話したいことがあります。今から、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「……」
「時間は掛かりません。すぐに終わります」久美子自身も時間がなかった。
「また拓磨が学校で何かやらかしたんですか?」
「……」また、という言葉が久美子の頭に残った。「いいえ、そういう事じゃありません。家庭訪問みたいなものです。こちらに転校されて、まだお会いしていなかったので」
「そうですか」
「何分も掛かりません。すぐに帰ります。今から行ってもよろしいですか?」
「わかりました。お待ちしています」
 それだけだった。家が判りづらいとは一言も口にしてくれない。探すしかない。ここまで来て引き返すことはできなかった。加納久美子は勇気を出して、目の前に建つ家のドアを叩く。「ごめんください」
 人が住んでいる気配があるのに反応がなかった。間合いを保ってドアを叩き続けた。声は次第に大きくなっていく。家の中から物音が聞こえたので止めた。 
 鈍い音を立てながら中から引き戸を開けてくれたのは、汚れた白いトレーナーの上下に薄手の黒いジャンパーを羽織った、七十代と思われる痩せた老人だった。
 「……」何も言わないで加納久美子を見てるだけだ。
「失礼します。実は黒川さんのお宅を探しています。ご存知ないでしょうか?」
「えっ、なんだって?」耳が遠いらしい。久美子は声を大きくして繰り返した。
「知らねえ」ぶっきらぼうな言い方だった。誰とも関わりたくないという態度が明らか。老人の開いた口の中には歯が数えるほどしかなかった。
「わかりました。失礼しました」久美子は頭を下げて、その場から身を引く。
 別の家に当たったみるしかない。どうしよう。ここは近所付き合いが、まったくない場所らしい。辺りを歩き回って自分で探すしか方法はないのか。すごく居心地が悪かった。家から出てきてくれた老人が、そのまま中に戻らずに久美子の様子を眺めていた。まるで不審者を見るような目で。
 これは苦労しそうだ。時間の許す限り一軒、一軒を調べるしかないと覚悟した。
 「加納先生ですか?」
 いきなり後ろから声を掛けられた。ヒヤっとした。振り返ると、ピンクのスエット・シャツに緑のトレーニング・パンツ姿の中年女性がいた。きっと黒川拓磨の母親だ。助かった。
 「そうです。拓磨くんのお母さんでいらっしゃいますか?」
「はい」
「初めまして。担任をしています、加納久美子です。よろしく」
「黒川です。こちらへ」
 久美子は母親の後ろに付いて行く。通路が狭くてプロパンガスのボンベと何度か接触しそうになった。気をつけないと、無造作に置いてあるバケツや鉢植えに躓きそうだった。黒川拓磨が住む家は最も奥に位置していた。
 居間に通された。座布団に腰を下ろすと、壁に掛けられた派手なワインカラーのワンピースに目が引き付けられた。母親は夜の仕事をしている、と理解した。「お構いなく。時間がないので、すぐに帰りますから」母親がお茶を煎れようとしたので遠慮した。
 「拓磨くんの家での様子は、どんな感じなんですか?」久美子は訊いた。当たり障りのない質問をしながら、何かを読み取りたかった。
「……」どう答えていいのか母親は分からない様子だ。
「どんな事でも構いません」
「普通じゃないかしら」声が小さい。
「お母さんとは話しをしますか?」もっと具体的に訊くことにした。
「はい。少しは……」
「どんな話をしますか? 例えば」
「え、……そう、天気とか」
「……」これでは埒が明かない。母親は事実を言っていない、と思った。隠したがっている感じだ。「息子さんの学校での成績を知っていますか?」
「い、いいえ」
「どのくらい彼が勉強しているか興味はありますか?」
「はい」
「でも彼と成績のことで話をしたことがないのですか?」久美子は決め付けるように言ってみた。
「……そうかもしれません」
 信じられなかった。ここまで親が勉強に無関心なのに、息子の成績はトップクラスだ。
「拓磨くんは、とても勉強ができます」
「そうですか」
「このまま行けば、どこでも高校は入学できると思います」
「はい」息子を褒められても嬉しそうでもない。
「息子さんについて何か困っている事はありますか?」
「ないです」
「……」話が続かない。
「……」母親は目を合わそうとしない。自宅に担任教師が来たのが迷惑らしい。
「わかりました。これで失礼します。お時間を割いて頂いて感謝します」
 この母親と話を続けても何も得られるものは無さそうだ、と判断した。自信がなくて、いつも何かに怯えている感じだ。あの自信に満ちた黒川拓磨とは似ても似つかない。座布団から立ち上がろうとしたところだった。
 「加納先生」
「はい」
「ここに先生が来たことは、息子に言わなくてもいいですか?」
作品名:黒いチューリップ 10 作家名:城山晴彦