黒いチューリップ 08
「……」信じられない。どうして二年B組の生徒が次々と……。そんな思いだった。
「加納先生ですか?」
スーツ姿の男性が近づいてきて声を掛けられた。知らない男だった。誰だろう。「はい」
「君津署の波多野です」そう言うと、手にした黒い手帳を開いて見せた。
「あ、すいません。二年B組の担任をしています、加納久美子です」まさか警察の人とは思わなかった。痩身で身のこなしが軽そう。骨格がしっかりしていて、まるでアスリートみたい。
「息子が御世話になっています」
「え?」
「波多野孝行の父です」
「まあ、波多野くんのお父さんですか。初めまして」息子とは似ていないと思った。
「こちらこそ初めまして。これから二年B組の教室を見たいのですが、一緒に来て頂けますか?」
「わかりました」
いろいろと佐野隼人と佐久間渚について聞かれるんだろう、と覚悟した。でも何も知らない。二人が交換日記をしていたなんて今、知ったばかりだ。警察には役に立てそうもなかった。
刑事二人と君津南中の教師四人、教頭と学年主任の西山先生、加納久美子と安藤先生が校舎の三階へと上がって行った。
41
とっさに、いい考えが頭に浮かんだ。
叫び声がして校庭に出てみると、二年B組の佐野隼人が倒れていた。みんなで声を掛けたが何の反応もない。目が死んだ魚のようだった。首は不自然な形で曲がっている。これは助かりそうもないと分かった。
救急車を呼ぶと直ぐに、安藤紫は担任の加納先生に連絡した。そのことを西山主任と高木教頭に伝えると、ふと思いついて一人で三階の教室まで足を運んだ。本当に窓から落ちたのか確認しようと思ったのだ。
暗い教室の隅で女生徒が倒れているのを見つけて、心臓が飛び出すぐらいに驚いた。近づいてみると、それが佐久間渚だと分かって更に驚く。まあ、なんてこと。
声を掛けてみると、返事が出来ない状態だった。うわ言で何か言おうとしているが聞き取れない。
ペナルティの白い粉を飲ませ過ぎた、と思った。これでは死んでしまう。生きたとしても廃人と同じだ。
意識はハッキリしたまま、様変わりした自分の醜い姿に苦しみながら生き続けて欲しい。お前の母親と祖母の行いの代償だ。家族みんなが辛い思いに打ちのめされたらいい。それが安藤紫の目的だった。
ベンツの男に結婚の意思がないと分かって、その腹いせに大目のペナルティを一度に飲ませた調子でやったしまった。
きっと佐久間渚は病院に運ばれる。医者は毒を盛られたと診断するだろう。警察へ通報されたら、自分が疑われるのは間違いなかった。
冗談じゃない。これは復讐だ。酷い目に合わされたから、それ相当の苦痛を相手に与えてやろうとしただけだ。何も悪いことはしていない。だから警察には捕まりたくない。自由のままでいたい。まだ素敵な男を見つけて幸せな家庭を築いていなかった。
いい考えが浮かんだのは、その時だ。すぐに安藤紫は行動に移った。
急いで職員室へ行って机の引き出しから、ペナルティの小さなビニール袋を取り出した。ハンカチで表面を丁寧に拭く。付着しているかもしれない自分の指紋を消すためだ。
親指と人差し指にセロテープを貼ってから、ペナルティを持って二年B組の教室へ向かう。佐野隼人のカバンを見つける。その中にペナルティを入れる前に、ハサミでビニール袋に小さくカットを入れた。カバンの中に少しこぼれていた方がいいと判断したからだ。
二人は交換日記をしていたが最近は上手くいっていなかったらしい。好都合だ。佐野隼人は佐久間渚に毒を飲ませた罪意識から自殺を図った、そういうストーリーを警察が描いてくれることを願う。死人に口なし。
安藤紫は工作が終わると、佐野隼人が倒れている現場に戻った。
「すいません。気分が悪くなってトイレに行ってました」みんなに聞こえるように言った。少し間を置くと西山主任に声を掛けた。
「あたし達で三階の二年B組の教室へ行ってみたらどうかしら。ここに何人も集まって救急車を待っていても意味ないもの」
「え、……そうだな。そうしようか」
安藤紫は後ろから付いて校舎の階段を上がっていく。完全に男の西山先生に頼っているという態度を装った。彼には、倒れている佐久間渚の第一発見者になってもらいたかった。自分は表に出たくない。警察の事情聴取なんか受けたくなかった。
刑務所なんか入れられたら人生は終わりだ。冗談じゃない。そんなこと絶対にイヤだ。素敵な男を見つけて幸せな家庭を築きたい。あたしには、そうなる権利があるんだから。
42
お姉ちゃん。
お姉ちゃんっ。
お姉ちゃんったら。
夢の中で誰かが土屋恵子を呼んでいた。だんだん声が大きくなっていく。うるさい。もう黙ってほしい。
あいつだ。あのバカだ。小学四年の弟に違いなかった。え、夢じゃない。現実だ。あの野郎、ふざけやがって。こっちはいい気持ちで寝ているのに……。もう一度呼びやがったら--。
「お姉ちゃんっ」
畜生、もう頭にきた。部屋のドアまで叩き出しやがって。起きるしかない。ぶん殴ってやろう。え? 何かへん。
あったか過ぎる。熱いぐらいだ。メラメラと何か燃える音が--。ぎゃっ、火事だっ。や、やばいっ。
「お姉ちゃん、起きてっ」
「わかった。起きた」土屋恵子は大声で返事した。
「早く逃げないと」
「今すぐ行く」
「早くっ」
「すぐ行くから。お前は一人で逃げて。お姉ちゃんも、すぐ逃げるから」
「本当?」
「待ってなくていい。お前は急いで逃げろ」
「わかった。お姉ちゃんも早く来てね」
「そうする」
煙が凄い。だめだっ。電気が点かない。こうなったら手探りで探すしかない。
山岸たちバカどもから、ふんだくった金は部屋の三箇所に隠してあった。兄貴と弟に見つかると盗まれるからだ。兄の高志は下着泥棒をして警察に捕まってから、袖ヶ浦で水道工事会社を経営する親戚の家に預けられていたが、ときどき帰って来やがる。
多くの男が女の着ている衣服が好きなのには呆れるほどだ。恵子は手塚奈々の汗で濡れた体操着を盗むことで、A組の木畑耕介から金を受け取っていた。彼は木畑興業の一人息子で、たんまり小遣いを貰っているらしくて気前がいい。一回につき一万円をくれた。盗んだ翌日には見つからないように元に戻す、という面倒な仕事だったが引き受けた。
手塚奈々の、あのバカ女の、汗まみれになった体操着を何に使うのか分からないが、そんなことは知りたくもない。どうせ、エッチなことだろう。しっかり金さえ払ってくれたら、それでいい。
熱いっ。火の粉が舞っていた。こりゃ、やばい。早くしないと。枕の下の財布を掴んで、タンスの中から二万円を取り出すので精一杯だった。漫画本に挟んだ一万五千円は諦めるしかなかった。また理由をつけて山岸たちに請求すればいい。そうだ、見舞金という名目で、たんまり金を出させよう。
ドアのロックを外して、二階の廊下に出ると黒い煙が充満していた。下から声がした。「恵子っ、大丈夫か?」父親だった。
「大丈夫」
「早く降りて来いっ」
「今、行くっ」
作品名:黒いチューリップ 08 作家名:城山晴彦