黒いチューリップ 08
土屋恵子は息を止めて、目を閉じた。何年も住んだ家だ、見えなくたって階段を降りて玄関まで行ける。床は熱かったが我慢して進んだ。
一万五千円が悔しい。燃えて無くなってしまうのだ。あの金でROXYのダウンコートを手に入れようかと迷っていたのだ。買っちまえばよかった。
裸足のまま外に出た。「お姉ちゃん」、「恵子っ」と声を掛けられて家族に迎えられた。みんな着の身着のままだ。弟のパジャマが所々だけど黒い。焦げたんだ、きっと。大事そうに『少年ジャンプ』を脇に抱えていた。
バカか、お前は。この状況で、どこで読むんだ、そんなモノ。やっぱり、こいつは救いようがない。そう土屋恵子は思った。
「何やってたんだ。心配したぞ」父親だ。
「ご免なさい」
「恵子、良かったね」母親が抱いてくれた。泣いている。
最後の一人娘が助かって家族はホッとした様子だ。だけど危なかった。もう少しで死ぬところだった。さっきまで住んでた家が目の前で激しく燃えている。風が強い。隣にも火が移りつつあった。もう大火事だ。土屋恵子は今になって体がブルブルと震えてきた。目から涙も溢れてくる。怖かった。
「ねえ、オバアちゃんはどこ?」
弟の一言に両親と姉は凍りつく。
43
さすがだ。たいしたもんだ。やっぱり古賀千秋は只者じゃなかった。リーダーになるべくして生まれてきた人物だ。彼女にとっては君津南中学の生徒会長なんて、ひとつの小さな通過点でしかないだろう。いずれは代議士になって、たどり着く地位は日本国首相かもしれない。
成績が優秀で二年B組の学級委員に選ばれて凄いと思ったが、それが彼女のすべてじゃなかった。山岸たちと一緒に万引きを始めると、もっと、もっと優れた一面を小池和美は見せられた。
「前田、ただボケっと周りを見ているだけじゃダメだ。少しは動いて、常に店員の様子を把握しろ」
「相馬、むやみやたらに盗めばいいってもんじゃない。出来るだけ高価で、売りさばき易いモノを取るんだ。頭を使え」
万引きをして僅か二日目でリーダーシップを握った。的確な指示を二人に出す。本人は山岸涼太と恋人同士を装って、イチャイチャしながら店員の注意を引く。お互いの体を寄せ合うの当たり前で、ここっていう時にはキスまでして見せた。好きでもないのに、よくあんな態度が取れるもんだと感心してしまう。自分の仕事に徹しているんだろう。それでいて、しっかり高価な商品を誰にも見られずにポケットに忍ばせたりしてる。店員の目だけじゃない、仲間の目も誤魔化すほどの凄腕なのだった。さすがだ。
小池和美は図体が大きいので、立っているだけで人目を集めた。
「あんたは、あんまり動かなくていい。商品を選んでいる振りをしながら、相馬太郎を店員から見えなくして。それから仕事の時だけは、その白いメガネを外して。目立ち過ぎちゃうから」古賀千秋からの指示は、それだけだった。
もっと役に立ちたいと思った。それじゃ、アホの前田良文と変わりがない。不満だ。あたしは、もっとマシなのに。
それと小柄な相馬太郎の後ろを歩いて階段を降りる時は、奴の背中を押して突き落としてやりたい衝動を抑えるのに苦労した。背の低い男を見ると攻撃的になる性格は、どんどんエスカレートしていく。
万引きを手伝って、それなりの報酬を貰っても嬉しくない。古賀千秋みたいに生き生きとした表情になれなかった。
それにしても彼女は凄い。勉強だけでなく、万引きも上手に出来た。何をやっても成功するタイプらしい。きっと初の女性総理大臣は小池百合子でも野田聖子でもなくて、古賀千秋で決まりだろう。
え、待って。こりゃ、もしかして大変だ。
彼女が総理なら、君津南中学で書記を務めてる自分は、このまま一緒に付いて行けば官房長官てことになりそう。何の取り柄もない自分が閣僚の一人になるなんて、これは大出世だ。でも人前で話すのは苦手。参った、なんとか克服しないと。
それから絶対に痩せないとマズい。二十キロ近くまで体重を落とせば、きっと藤原紀香に似た美人が官房長官に就任するので、マスコミは大騒ぎだ。古賀内閣の顔として世間の注目を集めるのは間違いない。しかし太ったままだと何かしくじりそうで不安だ。
就任の記者会見では、「ただ今、官房長官の職を拝命いたしました小池和美です。よろしくお願いします」てなことを言わなきゃならない。すると「今後の抱負を聞かせて下さい」なんて、どっかの新聞記者が質問してくるんだ、きっと。そんな想定内の会見で終わってくれたら幸い。
怖いのは、礼儀の知らない田舎者がこんなことを言ってきたときだ。「官房長官は、スタン・ハンセンに似ていませんか?」
全国放送だぞ。ふざけんなっ。日本の国民に向かって、小池和美はスタン・ハンセンに似ているって公表しているようなもんじゃねえか。バカヤロー。
「え? 誰ですか。さあ、そんな名前は聞いたことがありませんよ。プロレスは見ませんから」と、とぼけるしかない。
え、……待って。これって嘘がバレバレじゃん。だってスタン・ハンセンがプロレスラーだって知っているって白状していのと同じだもの。ヤバいっ。
こりゃ、いきなりスキャンダルになりそう。国会は税制改革みたいな重要法案を通すどころか、官房長官の就任記者会見での虚偽答弁を問題視して野党が審議を拒否。小池和美は閣僚としての資質に欠ける、の大合唱。マスコミは一斉に実家を直撃取材だろう。
あの父親のことだからテレビに出られるとなったら、ポマードで髪を固めてダーバンのスーツに着替えてから、マイクの前に立つのは間違いない。もうスター気取りだ。しっかりサングラスも掛けているかもしれない。そして意気揚々とインタビューに答えながら娘を、マスコミに売り渡すに決まっている。
「そうなんです。あの記者会見を見て、私もヘンだなと思いました。なぜなら娘は中学二年になると熱心なプロレス・ファンになって、いつもスタン・ハンセンを応援していたからです。ずいぶん憧れていたんでしょう。だって風呂場にある鏡の前に立って、ラリアットの練習を一人でしていたのを何度も見ています。まあ、父親の私が言うのも何ですが、なかなか様になっていましたよ。あれを食らったら普通の人なら気絶するなと思いました。お前は政治家なんかよりも女子プロレスラーになるべきだって、助言したこともありましたが耳を貸してくれませんでした。あいつは言い出したら聞かない性格で……あはは、私に似たんでしょうか」
「お父さん。確認しますが、小池官房長官が少女時代に風呂場の鏡の前で、ラリアットの練習をしていたっていうのは間違いないですか?」と、記者の一人が訊く。
「はい、そうです。私だけじゃありません、妻も何度か目にしています。なあ、お前?」
「ええ、そうですとも。ラリアットはスタン・ハンセンなんかよりも、ずっと和美の方が上手です」
一人娘を褒めているつもりだろうが、実は逆に窮地へ追い詰めていると理解できない母親だ。政治はちんぷんかんぷん、興味があるのはスーパー・マルエツの特売チラシと韓国ドラマだけ。悲しくなるが、それが小池和美の母親だった。
「ありがとう御座いました。いい取材ができました」
作品名:黒いチューリップ 08 作家名:城山晴彦