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黒いチューリップ 07

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 「お金をオーナーから借りた理由なんですが、ファッション雑誌に載っていたシャネルの財布とグッチのバッグが欲しくなったからでした。それと店の仲間とディズニーランドへ行って派手に買い物をしちゃったんです。あはっ。楽に稼げるもんだから、つい--」
「いい加減にしろっ」怒鳴った。
「え?」
「もう黙れ」聞いていられなかった。
 西山明弘の頭の中にスーパーいなげやでの怒りが蘇る。去年の暮れだ。大家の娘が作る不味い料理にはうんざりしていた。正月ぐらいは美味しいお雑煮を作って食べようと、食材を買いに行ったところが、かまぼこが千円近くもするのに驚かされた。いつも夕月は百円ぐらいで買えるのに何で? 仕方なく店を出て、周辺のスーパーを全て回ってみた。ふざけんなっ。どこにも安いかまぼこは無かった。こんな高いかまぼこには手が出ない。業界が談合して消費者に安いかまぼこを買わせなくしているのだ。正月なんで貧乏人から一儲けしてやろうという魂胆らしい。そんな卑劣なことが許されるのか? 三が日が過ぎた頃に、やっと安いかまぼこが店の商品棚に姿を現す。それを見て再び怒りに火がつく。畜生、オレをコケしやがって。こうなったら意地だ。もう二度とかまぼこは口にしてやるもんか。
 もしかして話し合いの場所は、手塚奈々がアルバイトをするお好み焼き屋だったりして。いや、きっとそうだ。この女子生徒は長いセクシーな脚を露わにして、業界の連中からたんまりチップを貰っているに違いなかった。反対に安月給で働かされる中学教師のオレは不利益をこうむっている。バカヤロー。「オレはな、お前たちのお陰で、かまぼこ無しのお雑煮しか食えなかったんだからなっ」いなげやでの怒りは目の前の女生徒に向けられた。 
「え、かまぼこ? お雑煮? どういうことですか?」
「うるさい。いいか、お好み焼き屋のアルバイトは永久に禁止だ。罰として一ヶ月間のトイレ掃除を言いつける。分かったな」
「え、どうして? 正直に話したら悪いようにはしないって、さっき先生は--」
「バカっ。そんなことオレが言うもんか。校則違反は厳しく処罰する」
 こんな不条理な話があるか? 世の中、間違っている。こんなことだからデフレ経済から脱却できない、それで国の借金が一千兆円にもなろうとしているんだ。
「先生、待ってください。なんか話が違いませ--」
「黙れっ。とっとと校庭へ戻って体育を見学してろ」
 西山明弘は席を立つと女生徒を残して、さっさと教室を出て行った。手塚奈々とは二度と話をしたくない。出来ることなら二度と顔も見たくなかった。あんなバカ娘はスズキのスクーターに乗っているところを大型トラックに轢かれりゃいいんだ。

   31

 高木教頭は胃の痛みに苦しんでいた。何度もトイレに駆け込む毎日だ。正露丸も大田胃散も飲んでみたが全く効かない。そりゃ、そうだ。原因はハッキリしている。薬を服用して治る病気なんかじゃなかった。株式投資での損失が精神と体調を蝕んでいた。
 『横河ブリッジ』を損切りして、二部市場の『京葉電気』に乗り換えたのは間違いだったらしい。たかが生徒の言葉を迂闊に信じて行動を起こすべきじゃなかったのだ。
 『横河ブリッジ』は売却した途端に四百円を超えて上昇した。どうしてだ? オレに対する嫌がらせか。持っていれば六万円は儲かっただろう。逆に『京葉電気』は買ったら直ぐに下がりだした。一週間後の火曜日に大きく下落したので、思い切って高木教頭はナンピン買いをしていた。買値の平均単価を安くする為だ。資金は銀行のカード・ローンから借りた。そこから損失は二倍のペースで膨らむことになった。
 今まで稼いだ利益は一気に消えた。苦しい。悲しい。喪失感に身も心もボロボロだ。もう死にたい気分だった。ダニエラ・ビアンキやジル・セント・ジョンの美しさは頭の片隅にもなかった。
 どうしよう? 持っていれば、いずれ上がるんじゃないか。
 根拠のない期待に縋って生きる毎日だった。もはや日本経済新聞を読んで勉強する気も失せた。株式欄を見て『京葉電気』の下落を知るのが辛いのだ。いつか事態は好転する、そう自分に言い聞かせた。
 昨日の昼休みだ。携帯電話を鳴ったので応答すると、相手は中原証券の山口だった。
 「先日に買った『京葉電気』なんですが、午前中にストップ安になりました」という報告だ。大きな石を無理やり飲み込んだように胃が重くなった。「連結子会社の粉飾決算が明るみに出て、地検の家宅捜査が入ったらしく--」その後に説明が続いたが高木教頭は、もはや聞いていられなかった。黙って電話を切ってトイレに駆け込んだ。
 余計なことで電話してきやがって。知りたくなかった。もう仕事もしたくない。このまま一人で便器に座って死にたかった。家にも帰りたくない。あの鬼女房と顔を合わせたくなかった。ああ、つらい。精神的に疲労困憊しているのに、じっとしていられない。ヒリヒリと尻が痛い。トイレット・ペーパーの使い過ぎだった。
 どうして、ストップ安なんだ? 大手証券会社に勤める生徒の父親が推奨したのに。このまま何年も塩漬け状態になってしまうんだろうか。もしかして倒産したりして……。そしたら株券は紙切れ同然だ。買値まで戻ってくれないと、カード・ローンで借りた金の返済ができない。でも利息払いは、ずっと続く。
 不安に駆られて二年B組の教室へ急ぐ。黒川拓磨の姿を見つけると声を掛けた。「きみの父親が推奨した『京葉電気』がストップ安らしいぞ。一体、どうなっているんだ」もはや周りにいる生徒たちに聞かれてしまうことなんか気にしていられなかった。損失の責任を生徒に咎める口調になっていた。
 「……」
「おいっ」何も言わない生徒に腹が立った。(大丈夫ですよ。すぐに上がって行くと思います)と、そんな言葉が返ってくるのを期待していたのに。「きみが野中証券に勤める父親の情報を教えてくれたから、オレは資金の全額を使って--」
 黒川拓磨は急に立ち上がると、高木将人を残して、そのまま教室から出て行ってしまった。そ、そんな態度があるか? 教頭であるオレを前にして。気づくと生徒全員の視線が、何事かと自分に集まっていた。やっぱり、これはマズい。 
 仕方なく職員室へ戻った。階段の上り下りでは特に尻の痛みがヒドい。ドアを開けると加納久美子先生の姿が目に入った。静かに小説を読んでいる。彼女らしい。何年か前は教え子だったのに、今は知的な素晴らしい女性になっていた。なかなか仕事もできた。助けを請うような気持ちで声を掛けた。
 「加納先生」
「はい?」 
「黒川拓磨のことで一つ訊きたい」
「なんでしょう」
「彼の父親の勤め先なんだが、もし加納先生が知って--」いきなり彼女の美しい顔が曇った。どうしてだ? 言葉が続けられなくなった。
「教頭先生」
「なんだい?」オレが何かヘンなことを言ったか?
「父親の勤め先って、どういうことでしょう?」
「いや、ちょっと気になったから訊こうとしただけさ。大したことじゃない」
「ですけど、去年の暮れに亡くなっていますよね?」
「えっ?」
「生徒の書類を渡してくれた時に、教頭先生が教えてくれたんじゃありませんか」
「……」冷たい水を首から背中に流されたような思いだった。
作品名:黒いチューリップ 07 作家名:城山晴彦