黒いチューリップ 07
サラミを渡されて山田道子は、幼なじみだった篠原麗子がすっかり変わってしまったと感じた。知らない間に理解できない女になっていた。佐久間渚がキスしたことを教えてやったのに、ぜんぜん無関心だし。大人しそうな顔をしているのに,Dマーケットではサラミを十一本も買ったと言う。それって衝動買いなの? 理解に苦しむ。食べるんじゃなくて、もし別の使い道を考えていたとしても二本もあれば充分なはずだった。
待ちくたびれた。黒川拓磨くんから返事は来ない。『あれは佐久間渚たちに仕組まれた冗談だったのよ。お願いだから忘れて』そう言って誤魔化すしかないと考えた。すでに十日が経っていた。もう彼が自分と交際してくれる可能性はゼロに近い。はっきり断われる前に、こっちから、あれは無かったことにして欲しいと伝えるしかないと思った。これまで通りの友だち付き合いは、なんとか保ちたい。
ところがだ、その黒川拓磨から応えがあった。諦めていたところに、いきなりでビックリした。朝、登校して自分の席に座っていると後ろから声を掛けられた。
「メモを関口が使っていた下駄箱に入れたんだ。それを返事と受け取ってくれて構わないよ。ぼくの要求を書いた。もしOKだったら、それを同じ場所に置いてほしい」
え、どういうこと? でも「わかった」と答えて頷くしか出来なかった。あまりにも突然で思考回路が働かない。まったく意味が分からなかった。
休み時間になるまで待つしかない。ずっと考え続けた。加納先生の英語の授業だったけど山田道子は上の空だ。『ぼくの要求』って、どういうこと? あたしと交際してくれるのかしら。
ああ、早くメモが見たい。頭が痛いとかウソを言って、早退しようかしら。いや、そこまでしなくてもいい。「先生、おトイレに行かせて下さい」もっといい口実を思いついて言った。山田道子は席を立つと一階の下駄箱へ急いだ。廊下でも階段でも誰にも会わない。好都合だ。関口貴久が使っていた下駄箱を見つけると、ビクビクしながら扉を開けた。
手が震える。もしかして中に何も入っていなかったりして。あたしは騙されたのかもしれないという不安を急に覚えた。がっかりして教室へ戻ったら、クラス全員に大爆笑で迎えられたりして。知性に溢れた加納久美子先生さえも教壇の横で、お腹を抱えてゲラゲラ笑っていたら……。ああ、大変。
ドッキリだったら、どうしよう。もう生きてはいけない。どこかでビデオ・カメラが回っていたりして。もしそうだったら、これから何度も教室で給食の時間に再生されるだろう。その度に自分は笑い者にされるんだ。
恋した男にドッキリ・カメラの標的にされた女子生徒、というレッテルが背中に貼られる。これから自分とすれ違った誰もが、うしろを振り向いて指差すのだ。あの子だ、と気づいて口元を押さえて笑う。男子は遠くから見つけただけで、『おーい、山田道子。下駄箱にメモはあったのか?』と大声を上げて大爆笑だ。それが死ぬまで続く。ああ、恐ろしい。たとえ義務教育であろうが、この君津南中学を二年で中退するしかない。死んだ方がいい。それとも一人で旅に出ようか……。
「えっ、あった」中に紙を見つけると思わず大きな声が出た。ヤバいっ。慌てて回りを窺う。よかった、誰もいない。そっと手に取り、広げて書かれていた文字を読む。飛び上がりそうになるほど驚いた。えっ、マジで? 何度も読み返した。短い文だから読み間違いなんかしない。確かに、そう書いてあるのだ。衝撃で身体は、その場に凍りつく。息もできない。『スチュワーデス暴虐レイプ』よりも強烈な文だった。
『きみのチューリップ柄のブラジャーとパンティが欲しい』、その横に、『洗濯はしないでくれ』が続く。
信じられない。まだ付き合ってもいないのに、あたしの下着が欲しいだなんて。黒川くんらしくない下手な字だった。キスだってしていないのに……、この性急さには付いて行けそうにない。
あ、そうだ。早く戻らないと。
山田道子はB組の教室のドアを開けて自分の席へ向かう途中で、加納先生から声を掛けられた。「大丈夫? 山田さん」
「え、……はい。何でもありません」遅かったので心配させてしまったらしい。ちょっと、ヤバい。
その日は下校するまで、ほとんど誰とも口を利かなかった。五十嵐香月と佐久間渚が訝しげな様子を見せたが、あえて弁解しない。考え事に夢中で、それどころじゃない。黒川拓磨くんのことは意識的に避けた。目を合わせでもしたら、顔が真っ赤になってしまう。
これって付き合ってくれるっていう意味なのかしら? それとも下着だけが欲しいの? えっ、まさか転売目的? それともコレクターだったりして。
だけど、どうしてチューリップ柄の下着を、あたしが持っているって知っているんだろう。しっかりリサーチしたってこと? つまり、この山田道子に好意を抱いてるってことじゃないかしら。
あたしには五十嵐香月みたいな美貌とスタイルの良さはない。だけど、あの女みたいな計算高いところもなかった。見栄えか、それとも貢いでくれる金額の多さでしか彼女は男を選ばない。
あたしには佐久間渚みたいな可愛らしさもなかった。だけど男と少し付き合っただけでキスしたり、お尻を触らせたりするほど軽薄な女じゃない。
外観では二人に負けている。でも心では負けていない。好きになった男には全力で尽くすつもりだ。その人だけを心から愛す。お金なんか恋愛に関係ない。愛があれば、それだけでいい。
そんな純粋な心に黒川くんは気づいたってことなの。すごい。なんて鋭い洞察力だろう。家に帰って夜中になるまで考えて、山田道子は一つの結論に達した。
あたしの魅力が原因だ。あたしに魅力が有り過ぎるから、あんな行動に彼を駆り立ててしまったのだ。これで全てが解決した。
あの黒川くんらしくないヘタな字は、ずいぶん緊張して書いたからに他ならない。そりゃそうだろう。好きな女の子に、いきなり洗濯していない下着をくれって言うのだから。返事が遅れたのも当然だ。
あたしには分かる、よく分かる。家で飼っている犬のロンと同じだから。散歩に連れて行けば出会うメス犬の尻の匂いを嗅いでばかりいる。
こうなったら、こっちもそれなりに大胆な行動で応えないと、彼の期待を裏切ることになってしまう。山田道子は決心した。チューリップ柄の下着を三日ほど穿き続けて、あたしという匂いを染み込ませてから渡してやろう。
翌日の朝、黒川拓磨の姿を見つけると近づいて何気ない振りを装いながら、そっと耳打ちした。「金曜日の朝まで待って。登校したら
真っ先に下駄箱に入れておくから」
その時の彼の顔ったら思い出すだけで笑えちゃう。ずっと欲しかった新型のスポーツ自転車を買ってもらったみたいな喜びに溢れていた。うふっ、すっごく可愛いかった。山田道子は生きてきた十四年間で一番の幸せを感じた。
29
「なあ、……この前の話なんだけど--」黒いメルセデス・ベンツの運転席に座る男が重そうに口を開く。
「いいわ。もう言わないで。わかったから」安藤紫は相手の言葉を途中で遮った。
作品名:黒いチューリップ 07 作家名:城山晴彦