黒いチューリップ 06
「……そ、そうか」やっと口から言葉を搾り出す。頭に生徒が口にした会社名を焼き付けた。急いで職員室へ戻って会社四季報で調べたかった。高木将人は足早に転校生の前から姿を消した。
『宇部興産』の株価は、三年前に四百五十二円という高値を付けた後は一貫して下げ続けた。今年になって百四十円から百七十一円まで上昇したが、その後は百五十円前後まで値を戻す。会社四季報には増益と書かれていたが、これから更に再び上がって行くんだろうか。高木将人は半信半疑だった。証券会社に勤める父親が漏らした言葉を、たまたま生徒から又聞きした情報だ。迂闊に信じて大切な自己資金を投じるわけにはいかない。しばらくの間は様子を見ることにした。
すぐに『宇部興産』の株価が再び百七十三円まで上がると、高木将人は百四十円が底値だったと確信する。しかしどこまで上昇するのか分からない。今から買えば高値掴みになる恐れがあった。
その判断が間違いだったと思い知らされたのは株価が二百円を超えた時だ。買っとけば良かった。やはり野中証券の社員が言う言葉は信頼できる。
「おはよう、黒川くん。あの会社の株が上がったじゃないか。さすが野中証券に勤めるお父さんの情報だけはあるな」朝、高木将人は転校生の姿を見つけると言葉を掛けた。
「そうなんです。僕も十万円ほど儲けました」
「えっ。あの株を買ったのか、きみは?」
「はい」
「……」なんてこった。中学生の小僧に出し抜かれた思いだ。悔しい。「よく、そんな勇気があったなあ」
「株は決断ですよ、教頭先生」
「……」ちっ。今度は説教か、こんなガキから。
「昨日ですが父親が僕に次の株を薦めてくれました」
「本当か」思わず心が躍る。「その会社を先生にも教えてくれないかな」
「いいですよ」
「頼む」
「二部上場の『京葉電気』です」
「え、二部上場だって?」
「はい」
「大丈夫なのか?」
「ええ。発行株式数が少ないですから値動きは激しいと思います。でも上がり出したら一気に行くっていう感じですよ」
「ふうむ、……そうか分かった。調べてみよう。どうも有難う」
「どういたしまして」
二部上場と聞いて高木将人は怯む。馴染みがなくて、これまでは素人が手を出すような健全なマーケットじゃないと考えていた。生徒の言った通りで、値動きの激しいギャンブルに近い投資になりそうだった。ただ一つだけ期待できるのは、市場に出回っている株式数が少ないので動けば一気に上昇するところだ。
そして『京葉電気』を買うには、持ち株の『横河ブリッジ』を損切りして資金を作らなければならなかった。一円でも金は失いたくない。だけど『京葉電気』で一儲けしたかった。その儲けが『横河ブリッジ』で出る損をカバーしてくれることを願うだけだ。
どうしよう。悩んだ。「株は決断ですよ」と言った生徒の言葉が頭に過ぎった。同時にダニエラ・ビアンキとジル・セント・ジョンの二人がセクシーに微笑む姿が目に浮かんだ。
次の休み時間、高木将人は職員室から出ると、人気のない駐車場から携帯電話で中原証券の担当を呼び出した。「山口さんを、お願いします。高木です」
23
どうしても次の富津中学との試合にスタメンで出場したい。
サッカー部の鶴岡政勝は鮎川信也と左のミッド・フィルダーというポジションを争っていた。ライバル意識を燃やして競い合わせようと、顧問の森山先生も二人を交互に試合で使った。順番からいえば次は鮎川信也の番だ。
前の試合では鶴岡政勝のミスプレーから失点して逆転で負けた。でも誰も咎めてきたりしなかった。板垣を除いて、みんなが「気にするな」と声を掛けてくれた。マネージャーの奥村真由美しては、「元気を出して、鶴岡くん。あなたなら失敗をバネにして次の試合で、きっと活躍してくれるはずよ」とまで言ってくれた。なんて、いい女なんだと思った。
これまでは高嶺の花で、背の低い自分なんか相手にしてくれないと考えていた。去年に買ったキャノンのデジタル・カメラ PowerShot A5で密かに写真を撮り続けるだけだ。手塚奈々と並んで、お気に入りの被写体だった。
手塚奈々には軽々しく水着の写真を撮らせてくれと言えたが、しっかりした性格の奥村真由美には無理だった。教室での様子とか体操服姿を隠れて撮影するのが限界だ。
スレンダーな身体つきで手足が長く、顔は細面、ショートカットのヘアスタイルが抜群に似合っていた。スポーツは万能、どんな競技でもスター選手になれそう。泥臭いサッカー部のマネージャーなんかをさせてるには勿体ないくらいだ。付き合っている女がいない部員にとっては憧れの存在だった。
やさしい言葉を掛けられて一気に親近感が増す。左のミッド・フィルダーという難しいポジションを任される自分の苦労を分かってくれているらしい。司令塔なのにフォワードの板垣順平は全く言う事を聞いてくれないのだ。これまではライバルである鮎川信也と二人で、試合運びの難しさを語り合って、板垣に対する愚痴を言うだけだった。
もしかしたら奥村真由美はオレに気があるんじゃないだろうか。あの優しい言葉には、そんなニュアンスが含まれていると思えた。彼女がオレのガールフレンドになってくれたら、どんなに嬉しいことか。
これはチャンスかもしれない。見逃しては駄目だ。男なら告白すべきじゃないか。
だけど彼女には背が高くてカッコいいボーイフレンドがいたりして。それとも好きな奴がいるのかもしれない。もし、いなくても交際を断られる可能性だってある。不安だった。どうすべきだろう。しかし日々、奥村真由美に対する想い強くなって行く。鶴岡政勝は計画を練った。
今日、明日に気持ちを伝えても効果は薄い。出来る事なら次の試合に出て、彼女が言った通りにオレの活躍で君津南中に勝利をもたらした直後の方が絶対にいい。その状況では、きっとオレの背の低さは問題にならない。感動で奥村真由美の心は高揚している。試合のヒーローから告白されてノーと言う女なんているもんか。
これだ。これしかない。これなら、きっと上手くいく。
問題は、どうやって次の試合にスタメンで出場するかだ。出れば富津中には必ず勝てる。連中の弱点は分かった。汚い富津弁さえ気にしなければオレたちが負けるはずがない。
鮎川信也にオレを次の試合に出させてくれと言っても、拒否されるのは明らかだ。続けて二試合もゲームから遠ざかれば、実戦の感覚は鈍って取り戻すのに苦労する。左のミッド・フィルダーというポジションを完全に失うことを意味した。ましてや理由が女の子に好意を告白する為だと言ったら、ふざけんなと怒り出すのは目に見えている。
悩んだ末に、板垣順平に怪我をさせた同じ方法を取ることに決めた。秋山聡史と二人で実行した仕返しは完璧なほど上手く行く。一試合だけ出場できなくなれば、それでいいのだ。そんなことを仲良しの鮎川にするのは気が引けたが、これが唯一の手段だと思った。
決断に踏み切ったのは転校生の助言が大きかった。
「素晴らしいヘッディング・シュートだったぜ」
体育の授業が終わって真っ先に、そう声を掛けないではいられなかった。
「ありがとう。だけど二度と起きない。あれはまぐれさ」
作品名:黒いチューリップ 06 作家名:城山晴彦