黒いチューリップ 06
お見合いの席での妻の姿は女らしくて、ラクエル・ウェルチを彷彿させるものがあった。駅前にあるホテル千成のレストランでの会食だった。だが二度目に会った時には、あまりの背の低さに少し失望した。ハイヒールを履いてこなかったからだ。そんなにスタイルは良くなさそうだ。喋り方も、慣れてくるにつれて口調の強さが目立った。会う度に少しづつ幻滅を覚えていく。ところが高木将人の気持ちとは反対に、どんどん結婚の話は進んでいく。紹介してくれた校長からは、「僕の顔を立ててくれて有難う」とまで言われてしまった。自分からは後に引けなくなる。なんとか女の方から断ってくれないかと、それだけを願う。
性格の弱さを呪った。勢いに流されるような感じで結婚してしまう。婿養子だ。悪夢の始まりだった。妻となった女は年齢を偽っていて、本当は八歳も年上だった。唯一、向こうが譲歩したのが高木という姓を名乗り続けられるということだけだ。
初夜ではラクエル・ウェルチとまではいかなくても、せめてハニー・レーヌみたいな瑞々しい女体を期待した。しかし考えが甘かった。ただ太っているだけで、どこも女らしいところがないのだ。
そのくせ、セックスのテクニックには驚くほど詳しい。四つん這いの姿勢で後ろから挿入しろとか、いきなりペニスを口に銜えてきたりと高木を圧倒した。なんとか性交したが、もう二度目は無理だった。性欲はあっても、妻の裸体を見ると急に萎えてしまう。
高校時代にチューリップの『心の旅』を聞きながら、自分の初体験を期待を込めながらイメージしたものだ。なんか凄く初々しい感じだった。歌詞の『あー、今夜だけは君を抱いていたい』に心を躍らす。髪が長くて痩身の、恥ずかしがる彼女を両手に包み込む自分を想像した。
ところがだ、現実は全然違った。相手には羞恥心の欠片もなかった。性欲の塊と言っていいくらいの女だった。平気で毛深い股を開く。何度も何度も求めてきた。大食いという形容詞がピッタリ。こっちの体が持たない。少し休ませてくれと頼んだか容赦してくれない。やっと務めを果たしたと思うと、今度は激しいイビキで一睡もさせてくれなかった。幻滅した。
女を見る目がなかった。恋愛経験がないので、女が化粧とかハイヒールやコルセットで別人になれることを知らなかった。
夫とは名ばかりで実際は妻の家族の奴隷と同じ。給料が振り込まれる預金通帳は取り上げられて、高木将人が手にできるのは小遣いとして月に一万円だけだった。忘年会とか同僚との付き合いがある時なんかは、頼めば金を出してくれるが渋々だ。へそくりをして自分の貯金を作るしかなかった。悲惨な結婚生活だ。一日でも早く独身に戻りたい。
婿として入った家は一族の本家で何よりも世間体が大事。絶対に離婚は認めてくれないだろう。高木将人は密かにアパートを借りて夜逃げするしかなかった。少なくとも百万円ぐらいの金を持って姿を消したい。へそくりを株式で上手く運用して増やしていくしかないと考えた。
『新日本製鉄』の株を百七十円で買って二百五十円で売った。八万円ほど利益を得た。次に六百円で買った『富士重工業』の株を七百円で売って十万円を稼ぐ。
2戦して2勝、無敗だ。幸先がいい。少ない限られた資金で十八万円も儲けた。もしかして俺って株の天才じゃないのか。そんな思いが頭を過ぎった。自然と夢が膨らむ。
あの年増のブスとは絶対に別れてやるんだ。アパートを借りて家に帰らなければ嫌でも離婚に応じるしかないだろう。自由を取り戻したい。四十三歳だ。やり直しは利く。今度こそ理想に近い女と一緒になりたい。
最初の結婚に失敗して憧れの女性はラクウェル・ウェルチから、二人のボンド・ガールズへと変わった。たまたま立ち寄った近所のレンタルビデオ店で、旧作百円キャンペーンをやっていて、何本か007シリーズを借りたのが切っ掛けだ。学生の頃に見たときは、ただ綺麗な女性だなと思っただけだったが、二度目は彼女たちの美しさに心を奪われた。
一人は『ロシアより愛をこめて』に出演したダニエラ・ビアンキだ。プロポーションよりも清楚で知的な美しさが印象に残った。ライトグリーンのスカートにイエローのブラウス、そして金髪をアップにした姿が醸し出す品の良さ。その格好で床に倒れて拳銃を構えたところなんか、もう最高。
マット・モンローが歌うサウンドトラックのジャケットは、ショーン・コネリーとのラブ・シーンのカットだった。曲を聴きながらスクリーンでのダニエラ・ビアンキを何度も思い出す。
ところが、その後は作品に恵まれなかった。この映画でしか彼女に逢えないのだ。願わくは『サンダーボール作戦』でカムバックさせて水着姿を披露して欲しかった。
もう一人が、『ダイヤモンドは永遠に』のジル・セント・ジョンだった。ビキニのショーツにカセット・テープを入れられてびっくりするシーンは目に焼きつく。彼女はIQが162と高くて十四歳で大学の入学を許された才女だ。しかしセクシーなボディしか注目されなくて、映画に登場するのは多くがお色気シーンだった。
高木将人は髪の毛が薄く小太りにも関わらず、これらの背が高くてナイス・ボディの女性が好みだ。大金を掴んで理想に近い女と仲良くなりたかった。その思いは強い。
どう角度を変えて鏡に映った自分の姿を見ても、体形は中年そのものだった。見掛けは良くない。これからどんどん体力も衰えていくだろう。時間は少ない。早く株で成功したかった。
まだ教師になったばかりの頃に、私立国際高校で自分の教え子だった加納久美子が今は同僚だ。それを考えると歳を取ったなと、つくづく実感させられる。四十五歳までにはなんとかしたい。
しかしだ、三百四十円で買った『横河ブリッジ』の株が期待に反して上昇しなかった。買値を下回ったままの辛い毎日が続く。
ビギナーズ・ラックで調子に乗って、安易な気持ちで『横河ブリッジ』の株に手を出したのが拙かったのだ。
真剣に株のことを勉強しなければいけないと思う。日本経済新聞を学校に配達してもらうことにした。株式欄を表にして常に持ち歩く。暇があれば目を通して知識を得ようとした。
「教頭先生は株をやっているんですか?」
廊下を歩いて二年B組の横を通り過ぎようとした時のことだ。一人の男子生徒から声を掛けられた。転校生の黒川拓磨だった。
「いいや、やっていない。世の中の出来事を知りたくて読んでるだけなんだ」やっているなんて勤め先の中学校で正直に言えるわけないだろう。
「そうですか」
「君は株に興味があるのかい?」
「あります。父親が証券会社に勤めていて色々な情報を聞かされますから」
「何だって?」聞き捨てならない。
「貯金があるので投資してみようかなって思っています」
「どこの証券会社に、お父さんは勤めているんだい?」
「野中証券です」
「……」業界で最大手だ。なんてこった。こんな身近に情報源があったとは。
「先週だけど『宇部興産』がいいなんて薦めてました。連結での純利益が急回復してるそうです」
「え、どこだって?」
「化学の『宇部興産』です」
作品名:黒いチューリップ 06 作家名:城山晴彦