黒いチューリップ 06
その後の母親は人に会う度に、「あたしは子育てに失敗した」と本人を前にして言いふらす始末。あの女ならではの仕返しだ。自分を否定されているようで酷く辛い思いをさせられた。
もう許さない。絶対に許してやらない。
良い子でいること、いい成績を取ることを強く求められ続けて、もう疲れた。それは娘である千秋の為ではなかった。すべてが世間体の為だ。もうイヤだ。母親の操り人形でいることに耐えられなかった。
「あんたの為だから」という言葉にもうんざり。そう言っては娘の行動に干渉してきて自由を束縛するのだ。
これからは自分のやりたいように生きていく。服も着たい服を着る。肌の露出が大きいセクシーなのが好き。ミニスカートが穿きたかった。脚には自信がある。あのバカな手塚奈々にも負けていないと思う。
ルピタとかで女らしくて大人っぽい服を選ぶと、母親は顔をしかめてこう言う。「千秋には似合わない。そんな服を着て歩いているところを人に見られたら、何て思われるかしら。ダメよ、ほかのを選んで」
ずっと地味で野暮ったい服ばかりを着せられ続けた。まだ中学生なのにオバさんみたいな格好だった。このままだと母親みたいな大人になってしまう。そんな危機感を覚えた。
オシャレな服が着たい。母親は買ってくれないから自分の小遣いで買うしかない。
幸いにも山岸涼太と相馬太郎、それに前田良文の三人が、千秋が指定した商品を万引きして安く譲ってくれた。連中から切れ者の関口貴久が転校して抜けたことは心配の種だったが、ビジネスは今のところは順調に行っている。
ここにきて古賀千秋は新たなアイデアを思いつく。山岸たちの万引きグループに加わることだ。欲しい物を自分で盗めばリスクはあるが金を払う必要がなくなる。それと母親を失望させる行為をしているという満足感が得られるのだ。
「ねえ、あたし達も仲間に入れてよ。今度、一緒に行きたい」古賀千秋はリーダー格の山岸涼太に言った。
「ちょっと、待ってくれ。仲間って、どういう意味だよ」
「万引きグループに決まってるでしょう。あんた達が万引きした品物を学校で安く売っているのは、誰もが知っているわよ」
「古賀さん、声が大きいよ。今は、もうやっていないってことになっているんだから」
「あら、そうなの」
「そうさ。相馬が駅前のコンビニで捕まってからは、足を洗ったってことにしてあるんだ」
「でも、色々と売っているじゃない」
「どうしても金が必要なんだ。それで仕方なく」
「あたし達もやりたいの。一緒に連れてってよ」
「マジかよ、学級委員の古賀さんが……」
「本気よ」
「女には無理だぜ。ヤバい仕事なんだ、やらないほうが--」
「そんなこと分かっている。でもやりたいの」
「困ったな」
「あたし達のこと、足手まといだと思っているんでしょう」
「当たり前だろ」
「そんなことは絶対にない」
「どうして」
「あんた達が最も多く売る商品って、ほとんどが女物じゃないのかしら」
「そうだけど。可愛い下着なんかは女子が必ず買ってくれるんだ」
「女連れの方が商品に近づいても不審に思われないわよ。あたしと山岸くんで恋人同士みたいにいちゃついて、店員の注意を引くこともできるじゃない。仲間の仕事をし易くするのよ。どう?」
「なるほど」
「切れ者の関口くんが抜けた穴を、あたし達二人が埋める」
「分かった。古賀さんの言う通りかもしれない。一応、仲間に相談してみるよ。ところで、もう一人の女って誰なんだい?」
「小池和美よ。あの子は、あたしの言いなりだから」
「やっぱりそうか」
これで決まりだった。次の土曜日が初仕事だ。その日のために古賀千秋はスニーカーや目立たない地味な服を選びながら、期待に胸を膨らませた。
22
日本経済は長く低迷を続けていた。馬鹿な橋本内閣が消費増税前の駆け込み需要を、景気回復と判断を誤って緊縮財政を断行してしまう。経済が良くなっていないということは一般の誰もが実感していたことなのにだ。1997年の11月には三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券が破綻する。その年の初めにニュースステーションで久米宏の隣に座る高成田解説者が、政府の予算案に「これは酷い」と言っていた通りの結果を招く。不良債権という問題が新たにクローズアップされて、もはや日本経済はデフレ・スパイラルという、脱出不可能な泥沼の中だった。
村山内閣は住専へ6千億円になる公的資金を投入した。その決定に対して、これほど国民が怒るとは思わなかったと後になって談話を残す。
政治家たちは全く国民のこと、その生活ぶりを理解していない。だから間違った政策しか打ち出せないのだ。『地域振興券』とかいうものを出すらしいが、その効果は期待できそうにない。
当然だが東証の株価もさえなかった。1万4千円前後をうろうろしていた。伴って君津南中学の教頭を務める高木将人の運用成績も芳しくなかった。ニューヨーク・ダウは1万ドルを突破する勢いなのとは対照的だった。
こりゃ、まずい。何とかしないと。
小渕内閣になって大蔵大臣に宮沢喜一が就任したが、その経済政策は従来の公共事業を柱とした目新しいものではなかった。「横浜ベイスターズの佐々木を登板させたのと同じだ」と意気込みを表わしたがインパクトは弱い。その後に、「この国の財政はやや破綻している」と口にした言葉の方は実感があった。これから日経平均株価が上昇していくとは思えない。つまり下げ相場で利益を出さなければならないのだ。カラ売りするほど相場感と勇気もない。株価が下げ過ぎたところのリバウンド狙いで行くしかなさそうだ。
高木将人は金が必要だった。自分の生活基盤を築くための資金を作って妻と離婚したいと願っていた。
一生懸命に勉強してきて六大学の一つに現役で合格できた。教員免許を取得して君津市の中学校に勤務する。数年後には、そこの校長の紹介で同じ歳の女性と見合いをした。
異性と付き合う経験がなかった高木は、相手のふくよかな身体つきに惹かれた。口数は少なくて大人しそうな人だと感じた。この人と結婚したいと思った。
高木将人の理想の女性像はラクエル・ウェルチだった。中学の時に新宿ピカデリーで見た映画、『恐竜100万年』に出演していた女優だ。ティラノサウルスの迫力ある映像を期待して映画館まで足を運んだ。しかし目に焼きついたのはボロ布を纏っただけのラクエル・ウェルチの肢体だった。なんてセクシーな女性なんだ、と見惚れた。
それまでのアイドルはハニー・レーヌだ。秋山庄太郎が撮ったヌード写真は部屋の壁に飾られていたが、家に居ない時はその上に映画『イージーライダー』のポスターを縦に貼って見えないように隠した。
二つのポスターの見ながら、グランド・ファンク・レイルロードの『ハートブレイカー』を聞くのが楽しかった。
作品名:黒いチューリップ 06 作家名:城山晴彦