黒いチューリップ 05
「お前、あの人たちが見えるか?」
「うん」
道路を境にして山沿いの片側は民家で反対側は田んぼが広がっていた。そこで、この暗さにも関わらず農作業をしている人たちがいるのだ。全く言葉を話さず黙々と仕事を続けている。声だけじゃなくて何の音も聞こえてこない。異様な雰囲気が漂う。
「見えるのか、お前?」と、念を押す祖母。
「うん、見えるよ。どうして?」
「そうか」がっかりしたような声だった。「お前な、あの人たちとは絶対に目を合わすな。もし話し掛けられても返事はするな」
「どうして?」
「なにも訊くな。ただババが言った通りにしろ。分かったか」
「うん。じゃあ--」
「じゃあ、何だ?」何も訊くなと言ったばかりじゃないか、そう咎める響きが言葉にあった。
「オバアちゃんの横に立って、血を流している人とも話しちゃいけないんでしょう?」
「ひえっ」
悲鳴に近い声を上げると、その場に祖母は腰を落としてしまう。慌てて立ち上がると孫の手を引っ張って逃げるように家に帰った。
「この子は霊感が強い。あたしの比じゃないよ。まわりが気をつけてやらないとダメだ」
両親に向かって、そう言ったのを覚えている。警告するような感じだ。その晩から祖母は体調を崩して床に伏す。亡くなったのは一週間後だった。
霊感が強いのは災いの元らしい。「隼人。もし変な人たちが見えたら、すぐに言いなさい」両親は心配した。
幸いにも、その後は異様な体験をすることはなくなった。祖母が絶対に目を合わすなと言った人たちを見る回数が、次第に少なくなっていく。霊感というのが自分から消えていく感じがした。
去年の十二月、期末テストが終わって家で開放感に浸りながらネスカフェのゴールドブレンドを飲んでいる時だ。心臓を鷲づかみされるような感覚に襲われる。病気じゃない、すぐに霊感が蘇ったんだと分かった。これまでで最も強い。どうして? 今になって。
その日から毎日、何か悪いことが近づいているという思いに悩まされることになる。訳が分からなかった。どうすればいいのかも分からない。ただ目の前に何かが現れるのを待つだけだった。
気になって勉強が手につかない。成績は落ち始める。ぎくしゃくし始めた佐久間渚との仲も、なかなか元に戻らない。
キスまでは早かったが、そこから先が進まなかった。肩から背中を触って、ゆっくり手を彼女の腰の方へ近づけると、「もう、やめて」と強く拒絶されてしまう。「いいじゃないか。もう少しだけ」そう頼んでも首を横に振るだけだった。
何だよ、オレたち恋人同士じゃないのかよ。オレのことが嫌いになったのか。交換日記なんて面倒くさいことがやめたくなる。
たまに板垣順平の奴が訊いてくる。「隼人、どこまでいった?」
「順調さ。オレは焦っていないから」と、誤魔化すしかなかった。反対に、「お前と香月はどこまでいったんだ?」と訊いてやる。するとその話は、そこで終わりになる。あいつら二人はキスまでいかないで別れたことが明らかだった。
順平は相当な金を五十嵐香月に貢いだ。初めのころは、「デートに三万円も使ったぜ」と笑っていたが、そのうち何も言わなくなる。渚から聞いた話しだと、水玉のワンピースから始まって、スカートやシューズ、下着、更には生理用品まで買わされたらしい。中学生の交際レベルじゃなかった。奴は香月と親密な関係になりたくて、どんどん金を使ったのだ。隼人が「佐久間渚とキスしたぜ」と秘密を打ち明けたことが切っ掛けに違いない。つまり順平の奴は金の力で女をものにしようとしたのだ。バカな奴だ。
金で自由になるような女は手塚奈々ぐらいなもんだろう。スタイルのいい長い脚だけが取柄で、頭の中は空っぽだから。佐久間渚にしても五十嵐香月にしても、そう簡単に身体を許すような女じゃなかった。
五十嵐香月は順平に多額の金を使わせておきながらキスもさせずに、一方的に理由も言わないで別れたんだから、ある意味で凄い女だ。
いつかオレも渚に捨てられるんだろうか。そんな不安が頭を過ぎった。なんとかして交換日記を始めたばかりの、ときめいた頃に戻りたかった。金でものにするつもりはないが、何かプレゼントをして渚を喜ばせるべきかもしれない。そう気づいた。
さて、どこで何を買おうか。
佐久間渚の嬉しそうな顔を想像しながら、色々と頭の中で品物を選んでいた。ところが今は、そんなことを考える気持ちになれなかった。
何か悪いことが近づいているという感覚は年が明けて、ますます強くなっていった。すべてが明らかになったのは三学期の初日だ。転校生。こいつが恐怖の原因だった。
加納先生に連れられて二年B組の教室に入ってくるなりだ、隼人と目が合う。驚いたことに笑みすら浮かべて見せた。休み時間になると向こうから接してきた。
「待たせたな」
「……」ど、どういう意味だ。
「オレが来たからには、お前は邪魔者だ。すぐに消えてもらうからな」
「お、おい、……なにを」
こっちの返事を聞こうともしないで自分の席へ戻っていく。隼人は呆気に取られるだけだ。
あいつは君津南中学に佐野隼人が通っていることを知っていたような口振りだった。会ったこともないのに。まったく理解できなかった。どうして、オレを敵視するんだ。
佐野隼人はキリスト教徒だった。小学校の四年生ぐらいまでは、いつも日曜日のミサに行っていた。最近は足が遠のいて熱心な信者とは言えなかった。転校生から酷い言葉を浴びせられると、何だか知らないが無性に教会へ行きたくなった。
日曜日、久しぶりにミサに出る。よかった。教会の荘厳な雰囲気の中に身を置くと、心が清められる思いがした。参列者全員で聖歌を歌うと、自分は神と共にあるんだという安心感を得られた。来週も来ようと決めた。
月曜日、登校すると下駄箱のところで転校生が待ち構えていた。
「お前が昨日どこへ行ったか知っているぞ」
「……」いきなり何だ。顔を見るのも嫌な奴なのに、朝から。すぐに教会のことを言っているのは理解できた。
「二度と行くな。わかったか」
「どうしてだ? お前には関係ないだろう」
「あるのさ」
「……え」ど、どういう意味だ。
「あの場所へ通うバカ者が近くにいると、オレの力が削がれてしまうんだ」
それだけ言うと転校生は、その場から去って行く。佐野隼人は下駄箱の前に残された。耳にした今の言葉を頭の中で反芻する。二年B組の教室に入って自分の席に座っても考え続けた。
あいつはオレが教会へ行くのを嫌がっている。つまりキリスト教が弱点なんだ。これで邪悪な存在であることがハッキリした。それなら懲らしめる為に毎日でも教会へ行ってやろうかという気になった 隼人は決心した。みんなの前に奴の正体を暴いてやろうじゃないか。--あっ。
うれしい。もう少しで声が口から出そうになった。その姿を目にしただけで気持ちが楽しくなる。開いた教室のドアの向こうに佐久間渚が見えたのだ。なんて可愛い女だろう。今日こそは優しい言葉を掛けてやろうと思う。彼女の横には五十嵐香月がいて、廊下で誰かと立ち話をしていた。山田道子かな? いや、違う。男子生徒らしい。黒い制服の一部が見えて分かった。少し不安になる。
作品名:黒いチューリップ 05 作家名:城山晴彦