黒いチューリップ 05
幼なじみの山田道子に誘われて映画同好会に入っていた篠原麗子だったが、何でも仕切りたがる五十嵐香月の性格が嫌で、集まりには行かなくなっていたのだ。
美術部に入って正解だった。安藤先生は優しくしてくれる。すごく気が合った。
家庭のこと、将来の夢、趣味、好きな食べ物、とか色々と聞いてくれた。気に掛けてくれているのか分かった。そんな話の流れで、ある時、安藤先生は「あなたのお母さんの結婚する前の名前は何ていうの?」と訊いてきた。
え、何で?
違和感を覚えた。そんなこと訊く必要もないのにと思った。答えると安藤先生は驚いた様子を見せながらも、何も言わずに立ち去って行く。その後は麗子の生活に関して何も訊ねてこなくなる。不思議だった。
美術部は絵を描くことよりも、コーヒーを飲みながら安藤先生と会話する方が楽しかった。何度か佐久間渚を誘った。そのうち彼女は映画同好会と美術部を掛け持ちするようになる。
美術部の活動は麗子に家庭での嫌なことを忘れさせてくれた。家に帰りたくない、という気持ちすら芽生えていた。
近ごろでは、母親と義父が言い争う声が二階の自分の部屋まで届く。
「オレたち夫婦じゃなかったのか?」
「すごく疲れているの。何度も言わせないでよ」
「お前なあ。疲れている、疲れているって、もう一ヶ月にもなるじゃないか。一体いつになったら元気になるんだ」
「医者に行って診てもらうわ」
「何だと。まだ行っていなかったのか?」
「忙しかったのよ」
「ふざけんな。じゃあ、夜の仕事を辞めればいいだろう。贅沢しなければオレの給料で十分にやっていけるんだから」
「そう言うけど、これから色々とお金が掛かることが続くのよ。麗子の高校受験だってあるし。もし公立に受からなかったら私立よ。幾ら掛かるか分かったもんじゃない」
「だったらベンツを売れ。あんなモノ、家庭の主婦が乗るもんじゃない」
「イヤよ。あれは絶対に手放さないから」
こんな調子だった。二人の言い争いが始まると、ステレオのボリュームを大きくして聞こえないようにした。でも、もし義父が母親に暴力を振るうことがあったらと気が気でなかった。
数日後、麗子は用事があって昼休みに佐久間渚と一緒に美術室へ行く。コーヒーを御馳走になって教室へ戻ったが、授業が始まる直前になって気分が悪くなる。学校を早退した。
家に近づいた時だ、玄関から母親と長身の若い男が出てきて、グリーンのベンツに乗り込むのを目撃してしまう。
あ、パパだ。と最初は思った。写真で見る実の父親と似ていたからだ。しかし直ぐに違うと気づく。あれは自分が幼稚園の頃に撮られたはずだ。容姿がそのままとは考えられない。若過ぎる。母親と一緒だった男は知らない人だ。誰だろう。自宅に呼ぶなんて、よっぽど親しい仲に違いなかった。もしかして母親は浮気をしているの? その考えが麗子の頭を過ぎる。母親との距離感が更に遠くなった。
義父の赤い軽自動車が玄関の横に停まっているのを見て、慌てて家路を逆戻りした日、麗子は美術の安藤先生に相談する気でいた。
こんな情況、もう一人では耐えられない。そんな思いだった。しかしどこを探しても見つからない。仕方なく街中をブラブラして時間を潰すしかないと考えた。校門を出たところで転校生の黒川くんと出会う。
「どうした?」すぐに彼が心配そうに訊いてきた。よっぽど心の不安が顔に現れていたに違いない。
「……」でも何も言えない。
返事を待っていたが麗子が答えられないでいるのを見て彼は言った。「ルピタのフード・コートへ行こう。一緒にジュースでも飲もうよ」
その言葉に篠原麗子は首を縦に振った。うれしかった。
安藤先生に相談したかったことを、すべて彼に話す。涙が止まらなかった。話すことで気持ちが少しづつ楽になっていく。そして彼は問題を解決する方法としてアドバイスをくれた。
え、そんなことできない。
とても無理だと思った。そんな勇気は自分にない。「分かった。考えておく」とだけ言って、ルピタのフード・コートを二人で出た。家に帰っても安全な時間になっていた。
事情が変わる出来事が起きたのは数日後だ。
幼なじみで近所に住む山田道子が泊まりに来てくれた時のことだった。義父は親睦会の旅行に行っていた。夕食を終えて、リビングで母親を交えて三人でデザートを食べていた。義父がいないと家は楽しい。そこで新居に合わせて買ったサンヨーの大型テレビが衝撃的なニュースを流す。
再婚した妻の連れ子である義理の娘に、性的な虐待を繰り返していた父親が警察に逮捕されたという内容だった。麗子は身体が固まる思いだ。
「酷いっ、酷すぎる。許せない、こんな奴は絶対に許せない」と声を張り上げて非難する山田道子。強く同意を求めていた。だけど麗子は弱々しく頷くことしか出来ない。早く次のニュースに変わって欲しいと願うだけだった。無意識に横目で母親の様子を窺う。
えっ。
麗子と同じように身を固くしているのだ。無表情でテレビを見つめている。デザートを乗せたスプーンは宙に浮いて止まったまま。山田道子の言葉に反応できない。娘の視線に気づくと何も言わずにリビングから出て行った。
この瞬間、母親は自分の娘が義父から性的虐待を受けていることを知っているんだと確信した。頭のてっぺんから足の爪先へと百万ボルトの電流が一気に突き抜けた感じ。
麗子もリビングから出て自分の部屋へと急いだ。そこで心の動揺が顔に現れなくなるまで待つ。少し落ち着くとリビングへ戻って、「どうしたの?」と訝る山田道子に、急に気分が悪くなったと言って帰ってもらう。一人になりたかった。
悲しい。自分の部屋で、ベッドにうつ伏せになって泣いた。
どうしてっ、どうして? どうして、助けてくれないの? どうして、何もしてくれないの?
あたしよりも新築の家やグリーンのベンツの方が大切だったらしい。ずっと愛してきた母親は、そんな人間だったのか。ズタズタに傷ついた。もう絶対に回復しそうにない。麗子は心を閉ざした。
これからどうしよう。これから、どう生きていけばいいのか。
翌日から母親は罪の意識を感じたのか、びっくりするほと優しくなった。いつも声を掛けてくれて、何でも買ってくれようとする。だけど逆に、それが麗子の怒りに油を注ぐ。もう大嫌い。上辺だけの優しさだ。肝心なことを話そうともしない。ウヤムヤにする気らしい。決心した。あのアドバイスを実行するしかない。今ならできる。それだけの勇気があった。
篠原麗子は計画を練り始めた。
18
佐野隼人は悩んでいた。すべてが上手く行かない。サッカー部のキャプテンであったが、その務めすらどうでもよくなっていた。
あいつの所為だ。それは強い霊感の所為で理解できた。しかし、どう対処すればいいのか分からなかった。
霊感の強さを知ったのは小学校へ上がる前だ。山に囲まれた父親の実家へ行った時のこと。日が暮れてから祖母に連れられて何軒か先の家へ用事があって出かけた。帰り道だ、祖母は急に立ち止まって孫の手を強く握ると言った。
「隼人」いつもの優しい声じゃなかった。
「なに、オバアちゃん」手を通して緊張感が伝わってくる。
作品名:黒いチューリップ 05 作家名:城山晴彦