黒いチューリップ 05
「あんなにマセた子は、あたしは知らない。エッチな夢を見るのは無理ないわよ、あんな大人びた身体をしているんだもの。一体いくつなの、あの娘?」
「驚かないで聞いて。十四歳になったばかりよ」
「えっ、まだ子供じゃない。信じられない。それで、あの色気?
もう世も末だ」
「びっくりよ。見た? あの尻の丸み」
「もちろん。もう男を咥えたくてウズウズしてるって感じだったじゃないの」
「いやらしい。親の顔が見てみたい」
「きっと母親は亭主の目を盗んで、ラクビー部の男子高校生なんかと朝から夕方までズッコンバッコンさ。じゃなかったら娘が、あんなふうに育つわけがないもの」
「そりゃ、言えてる」
「うちなんか年頃の息子が二人もいるだろ。あんな小娘が丸い尻をプリプリさせながら街中を自由気ままに歩くと思うと、心配で心配で仕事に集中できやしない。医療ミスでも起こしたら大変なことになるっていうのにさ。それから来年は次男が受験なんだよ。もし志望校に入れなかったら、あの女の所為だ」
「将来が恐ろしいよ。どこまで淫らな女になるんだろう」
「男なしでは生きられないってな感じじゃない。あの歳であの身体だもの、どスケベな母親を超えるのは間違いないよ」
「君津警察に通報してやろうかしら。刑事に知り合いがいるんだけど」
「何て?」
「重大な性犯罪を誘発させそうな淫らな小娘がいますって言うつもり。あの女は公然わいせつ罪と同じだよ」
「でも素っ裸で歩くわけじゃないから難しいかもよ。どんな対策をして欲しいの? あんた」
「あの子の腰の回りにモザイク処理を施してくれと頼みたい」
「そりゃ無理じゃない。写真とかじゃないし、聞いたことないよ」
「だけど放っておけば絶対に何かが起きるよ。これだけは言っておく。あの小娘の丸い尻で、きっと誰かが命を落とすことになるだろう」
「あんた、そこまで言う?」
「あたしには分かるんだ。この病院で嫌というぐらいに沢山の人たちを見てきたから」
そんな会話が聞こえてきそう。ああ、耐えられない。病院へ行くのは無理だ。自分で治すしかない。篠原麗子は悩み続けた。
エッチな夢を見る原因のヒントを見つけたのは、加納先生の英語の授業中だった。
席を立って古賀千秋が教科書を朗読していた。流暢な英語で、しっかり勉強しているのか窺えた。その前が手塚奈々の番で、英語なのか韓国語なのか分からないような読み方だったので尚更だ。
麗子は教科書のセンテンスを目で追っていたが、突然だった、寝る前に飲むホットミルクのことが頭の中に浮かぶ。
幼稚園の頃からの習慣だった。家族が三人になると、「いいね。オレも欲しいな」と言って義父も飲み始めた。今では義父が先に用意してくれて、それを二階の寝室まで持って行く。
「あっ」思わず声が出た。何事かと古賀千秋が朗読をやめる。二年B組全員の視線が麗子に集まった。た、大変なことをした。
「篠原さん、どうしたの?」と、加納先生の声。
「す、すいません。何でもありません」そう言葉を搾り出す。下を向く。恥かしくて顔を上げていられない。みんなの注意が早く授業に戻って欲しかった。
「大丈夫?」
「はい」顔を上げて加納先生を見ながら答えた。大きく頷いて安心させないと。
しかし精神状態は大丈夫からは程遠かった。心臓はドキドキで、胸から飛び出しそう。
睡眠薬。
篠原麗子の頭の中にホットミルクの次に浮かんだ言葉がそれだ。認めたくないけど辻褄が合う。
睡眠薬を混ぜたホットミルクを飲まされていたらしい。夜中に部屋に入ってきて、あの中年男は好き勝手に熟睡している自分の身体を弄っていたんだ。間違いない。きっとそうだ。
卑劣。なんていやらしい。最低の人間がすることだ。いや、人間じゃない、あんな奴。
そんな男に触られて、仕組まれたとは言え、気持ち良くなっていた自分が情けない。悔しくて涙が溢れ出た。下を向いて回りの生徒たちに悟られないようにしないと。身体が震えてくる。汚された身体から義父の手垢と指紋を取り除きたい。涙が膝の上に置いた手に落ちてきた。
「篠原さん、これ使って」
「……」え?
声を掛けてくれたのは隣に座る転校生の黒川くんだった。差し出されたのはポケット・ティッシュ。ありがたかった。頷いて受け取った。そのまま何も言わない優しさが嬉しかった。麗子は一人で静かに泣き続けた。
英語の授業が終わると、すぐにトイレに向った。誰とも喋りたくない。一人でいたかった。また泣いた。休み時間が終わって教室へ戻った麗子は、もう自分が回りにいる生徒たちとは違う存在になった気がした。前みたいに一緒に喋って、ゲラゲラ笑うことは出来ない。あたしは汚れた女なんだから。すごく悲しかった。
「篠原さん。もし何か悩みがあるなら、僕で良ければ相談に乗るよ」また黒川くんが声を掛けてくれた。
「うん」続く有難うと言う言葉は口から出てこなかった。でも感謝はしている。泣いているのを、みんなから隠してくれたから。
義父から渡されたホットミルクは二度と飲まない。隠れて流しに捨てた。強い眠気は襲ってこなくなった。
思った通りだ。夜中に義父は麗子の部屋に入ってきた。心臓が破裂するぐらにドキドキ。そして布団の中に手が差し込まれる。背中に触れた時、「いやっ」と声を上げて反対側へ逃げた。義父が手を引く。そのまま動きが止まった。驚いているらしい。
静寂。
窓の外からスクーターが通り過ぎる音が聞こえてきた。しばらくして義父は部屋から出て行った。
朝だ。ほとんど麗子は寝ていない。これからどうなるの、とずっと考え続けた。今日は休みたい。窓から見下ろすと駐車場に義父の赤い軽自動車がなかった。恐る恐る、足音を立てないでリビングへ降りていく。義父はいつもより早く市役所へ出勤したと母親から聞かされた。少し、ホッとした。でも夜には顔を合わさなくてはならない。嫌だ、あんな奴と。母親に言うべきか。どう母親が反応するのか、それも怖かった。
とにかく学校へ行くことにした。
次々と否定的なことが思い浮かぶ。もうボーイフレンドができて楽しくデートすることも、結婚して幸せな家庭を築くことも不可能だ。ハゲで中年のデブに汚された女を誰が相手にしてくれる?
母親に言ったとしても、あの卑劣な男はきっと否定するだろう。
証拠は何もないのだから。その後で、どんな仕返しをしてくるか分かったもんじゃない。怖い。母親から新築の家とグリーンのベンツを奪ってしまうかもしれない。
誰かに相談したい。最初に頭に浮かんだのが加納先生だ。次に美術の安藤先生。二人ともタイプは違うが美人で優しい憧れの先生だった。
安藤先生とは最近になって急に親しくなる。切っ掛けは、「篠原さん。あなた、美術部に入る気はない?」という誘いだ。
え、あたしが? びっくり。どうして? 絵は下手で芸術のセンスなんか全くないと思っていたのに。
「下手とか上手とかは別にいいのよ。あなたの絵には何かインスピレーションを感じるの。描いていて楽しく思えることが大切なんだから。どう? 美術部に入って一緒に楽しく絵を描いてみない」
褒められて嬉しかった。「考えてみます」と答えたが気持ちは決まっていた。
作品名:黒いチューリップ 05 作家名:城山晴彦