黒いチューリップ 05
麗子は二階の日当たりのいい部屋をあてがわれた。嬉しかった。天井はモスグーン、壁紙はベージュにした。机と椅子、ベッドは木更津のニトリで気に入ったのを選んだ。値札を見ないで買い物をするなんて今までになかったことだ。
ペットが欲しい。兄弟がいない寂しさを紛らわしてくれるだろうと期待した。隣の家ではイヌを三匹と二匹の猫を飼っていた。みんな人懐っこくて、すごく可愛かった。遊びに行くと麗子を大歓迎してくれた。
言えば二つ返事でペットを飼わせてくれるのは分かっていたが、借りを作るのがイヤだった。義父の馴れ馴れしさは悩みの種だ。それが助長される恐れがあった。ただ自分の部屋に居れば何もない。学校から帰ってくれば直ぐに閉じこもった。お風呂と食事以外はリビングに降りていかない。
三人家族になって二ヶ月ぐらいが経った晩、自分の部屋で寝ていると麗子は物音に気づいて目を覚ます。
え、なに? 気の所為? 夢だったの?
目は開けずに、じっとしていた。何もなければ再び眠りに落ちるだろうと--、額に冷気を感じた。え? 部屋のドアが開けられていることに気づく。人の気配を感じた。きっとママだ。でも、どうして何も言ってこないのか。ヘン? そしてお酒のニオイが漂ってきて、全身に衝撃が走る。ママじゃない、義父だ。あの中年男があたしの部屋に黙って入ってきていた。
何をしているの? 何かを盗もうとしているの?
理解できない。ここには何も高価なモノなんてないのに。義父の息遣いを感じた。何か興奮しているみたいな。怖かった。早く出て行ってほしい。
完全に目は覚めた。でも恐怖で動けない。しばらくすると義父はいなくなったが、麗子は朝まで一睡もできなかった。
翌日、部屋に鍵を掛けたいと母親に言ってみると、「どうして?」と訊かれた。
「……あのう、……その」答えはしどろもどろ。
「そんなの必要ない」と一蹴されてしまう。
母親を納得させるだけの理由を用意していなかったのが間違いだった。何か悪い事を企てているんじゃないかと誤解されたらしい。
ああ、困った。どうしよう。
その後は頻繁に義父は、お酒のニオイをプンプンさせながら部屋に入ってきた。ベッドに近づいて寝ている麗子の様子を窺う。義父の目的が分かった。この、あたしだ。あたしの身体に興味があって部屋に入って来るんだ。
驚愕。いやらしい。どうして? こんなに歳が離れているのに。
夜、寝るのが怖い。義父に何をされるか分からないからだ。睡眠不足の日が続く。
この早熟な身体が原因らしい。中学二年になって急に大人びてきた。胸のふくらみ、ふくよかな腰まわり、もう二十歳過ぎの女性と変わらない。外で歩いていても男性の視線をすごく浴びる。お茶でも飲まない、と何度も声を掛けられた。まだ十四歳なのに、だ。
麗子の理想は加納久美子先生だった。あんなスレンダーな体型に憧れた。アスリートみたい。知的な顔立ちも素敵。それなのに風呂場の鏡で見る自分の姿は、男性向けの雑誌を飾るピンナップガールみたいだった。
麗子はクラス・メイトの手塚奈々みたいに、長い脚を自慢して露出する勇気はなかった。山岸くんたちが作った、『二年B組女子生徒ベスト・オナペット』のランキングでは二位にされて恥ずかしい思いをした。だけど奈々ちゃんは嬉しそうに両手を挙げて男子の拍手を全身に浴びた。よくあんなことができる、と感心してしまう。
学校では何度も男子から手紙をもらって戸惑ってもいた。文面はどれもほぼ同じで、『ぼくと付き合って下さい』だ。何て返事していいのか分からなくて困った。
意思に反して急速に大人っぽくなっていく身体が異性を惹きつけた。誰もが美味しそうな和風ハンバーグ・ステーキを見るような目で自分に視線を送ってくる。なんか怖い。それなのに家では危険な男と一緒に住んでいる状態だ。警戒は怠れなかった。
ところが、ある日を境にして、よく眠れるようになる。寝不足の疲れが溜まっていたからだろうか。いつものようにホットミルクを飲んでベッドに入ると、すぐに眠りに落ちた。いつ義父が部屋に入ってこないか心配しなければならないのに、強い眠気には勝てなかった。
朝までぐっすり。部屋のドアが開けられる音に目を覚ますこともない。これまでと違うのは毎晩のようにエッチな夢を見ること。誰かに身体を触られて気持ち良くなっている、自分の姿だ。朝、起きると汗びっしょり。下着にはシミ。ああ、恥かしい。
これって思春期だから? 年頃になると、こんな夢を毎晩のように見るの? だったら二年B組の女子みんなが、こういう夢を見ているのかしら。もしそうなら学校で、よくあんな真顔でいられる。いつもと同じように友達同士で喋って笑って……。自分なんか恥かしくて、もう相手の目を見て話すことが出来なくなった。
え、でも……もしかして、麗子の頭に別の考えが浮かぶ、これって病気だったりして。
だったら大変。お医者さんへ行かなくちゃ。ガンじゃないけど早期に治療しないと、手遅れになって今より悪くなる可能性だってありそう。
もし症状が悪化したらどうなるんだろう、これ? 夢だけじゃなくて、起きている時もずっとエッチなことを考えてる状態になるのかな。冗談じゃない。そんなのイヤだ。
病院へ行くなら、これって何科になるの? 内科、違う。外科、違う。耳鼻咽喉科、ぜんぜん違う。産婦人科、いや、子供を産むわけじゃないし。あっ、精神科じゃないかしら。たぶん、そうだ。
だけど病院へ行くのに母親に何て言う? 「あたし、毎晩のようにエッチな夢を見て困っているの」なんて口が裂けても言えない。
たとえもし病院へ行けても、多くの医者は男性だ。母親よりも言い難い。
きっと若くてハンサムな独身の医者は、びっくりして目を丸くするはずだ。近くにいた超美人の看護婦は思わず手にしたカルテで顔を隠して、鼻で笑う。「きゃはっ」そしてナース・ステーションへ駆け込むのだ。滅多にない愉快な話を同僚たちに伝えるために。
「ねえ、ねえ。ちょっと、みんな聞いてよ。今ね、〇X先生のところに、エッチな夢を見てばかりいる女子中学生が来ているんだ。うふっ。すっごく面白くなりそうよ。どう、見に来ない?」こんな調子だ。診察室は好奇心に満ちた看護婦たちで、ドアが閉められなくなるほど満員になるだろう。
難しい手術をしていたドクターは、傍にいたはずの看護婦が一人残らず姿を消してしまったので、仕方なくセルフサービスで執刀を続けることになると思う、きっと。
「診察しますから、シャツのボタンを外してくれるかな」、なんて若くてハンサムな独身の医者に言われたらどうしよう。え、精神科なのに服を脱ぐんですか? そんな疑問を持っても、中学生の自分は先生の言葉には逆らえない。思春期を迎えて女らしくなった身体が、好奇心に満ちた看護婦たちの視線の集中砲火を浴びるのだ。誰もが息を止めて、篠原麗子の指の動きを見守っている。張りつめる空気。彼女たちの唾を飲み込む音が耳に届いてきたりして。診察室では一言も口に出さないけど、きっとナース・ステーションへ戻った時は篠原麗子の話題で持ちきり。
作品名:黒いチューリップ 05 作家名:城山晴彦