黒いチューリップ 05
17
ああ、どうしよう。困った。
学校が終わって家に帰ってみると、まず目に入ったのは駐車場に停まっている義父の軽自動車だった。色褪せた赤いスズキのアルトだ。何で、こんな時間に家にいるの?
家はセキスイハウスで建てた新築で、親子三人で暮らすには十分な広さがあった。でも、あの男と二人だけで家に居るのはイヤ。何をされるか分かったもんじゃない。
「お母さん、再婚したいと考えている人がいるのよ。もちろん、麗子が気に入ってくれたらの話だけど」
そう言って、母親が国道沿いにあるデニーズで紹介してくれた男は、ハゲ頭の背が低い中年だった。
がっかり。なんで、こんな男が母親と? 何も言えない。挨拶すら口から出てこない。結婚って、男と女がエッチなことをする約束みたいなもんなんでしょう。あたしのママが布団に入って、こんな汚らしい中年男と……。ああ、イヤだ。気持ち悪い。
あたしが幼少の頃に別れた本当の父親は、写真で見る限りだけど、すっごく背が高くてハンサムな人だった。笑顔が優しそう。こんな素敵なパパと何で別れちゃったのか理解できない。会いたかった。一緒に歩いて友達に見せたい。
写真を目にする度に母親に、「どうして?」と訊いた。いつも決まった答えが返ってくる。「あんたは子供だから知らなくていいの」、だ。
きっと何か、子供には話せない、大変な理由が出来て、仕方なく離婚しなければならなくなったんだろう。でも二人は心の中で今でも愛し合っている。きっと、そうだ。だって、あたしのママとパハだもの。そう篠原麗子は、ずっと信じてきた。
母親から再婚したい相手がいると伝えられた時は、信じていたものが崩れていく思いだった。じゃあ、あたしのパパのことはどうするの? と、訴えたかった。
新しい父親を受け入れるのには強い抵抗があった。自分を納得させる為にも本当の父親に似た人であって欲しいと願った。
デニーズに遅れてやって来て、テーブルの向かいの母親の隣に腰を下ろした男を見て、この人を好きになるのは、どんなに努力しても無理だと直感的に思う。
ハゲ頭の中年男は、あたしの機嫌を取ろうと食事中よく喋った。学校のこと、将来のこと、友達のこと、興味もないくせに色々と訊いてくる。ああ、うざったい。つまらない冗談しか口にしない。今どき、そんなの子供にも受けないよ。大好きな和風ハンバーグが全然美味しくなかった。
馴れ馴れしくママの肩や手に触ることも気に入らない。もう、腹が立つ。見ていられない。辛いのは、それを母親が嫌がらないことだ。どんどんママが自分から遠ざかっていると感じた。
デニーズからの帰り、自動車に乗ってすぐに母親は訊いてきた。
中年のハゲはいない。二人だけだ。「どう? あの人。なかなかイイ人でしょう」
「……」え、どこ……がっ? 何も言えない。正直に言ったら、母親がどんな反応をするのか分からないし。
「あの人って見掛けは良くないけど優しいのよ。それに市役所に勤めているの」
「……」娘の沈黙を拒否反応と悟ってくれたらしい。市役所、そうなの。それが再婚の決め手らしい、と麗子は理解した。
「結婚したら家を建てるって約束してくれたのよ。車も外車にするって言ったわ。麗子も色々なモノを買ってもらえるわよ」
「……」いらない。何も欲しくない。アパートでいいから、ママと二人だけの生活を続けたい。
「どう、嬉しくない?」
「……」全然。モノを買ってくれなくていいから、あの人とは一緒に住みたくない。
娘の返事を待っている様子だ。でも何も言えなかった。間が空いて、次に口を開いた母親の口調は一変していた。「あんた、あの男のことをまだ想っているの?」
「……」そう。だって本当の父親だもの。頭から消し去るなんて無理。公園で楽しく遊んでくれたことを覚えてる。
「あの男は、あんたのことなんか何も気にしてないわよ」
「……」その言葉、麗子の胸に突き刺さる。そんなのウソだわ。
「だから会いに来ないのよ。娘のことを想っているなら、ちゃんと養育費とか払ってくれるはずでしょ」
「……」気分は奈落の底へ。悲しい。
「あんなダメな男はいないの。お金にはルーズで、女にもルーズだった。仕事は何をやっても中途半端で投げ出す始末だから。背が高くて見栄えはいいけど、それだけよ。無責任でだらしない男。お母さんが、あいつのお陰でどれだけ苦労--」
「わかった。もういい」もうパパの悪口を言わないで。お願いだから。「あの人と結婚していいから」そう言うしかなかった。
「そう?」
「……うん」目から溢れた涙が頬を伝わって落ちてくる。
(再婚したいと考えている人がいるのよ。もちろん、麗子が気に入ってくれたらの話だけど)あの言葉って何だったの。
「あんたの気持ちは分からないでもないのよ。あたしだって、あの人のことを心の底から好きとは言えないもの。理想の男性には程遠いわ。だけどね、現実を見なきゃダメよ。女手一つで、あたし達が二人で暮らしていくって本当に大変なんだから。この結婚は麗子の為を思って決断したとも言えるのよ。あんたも大人になれば、きっと分かる」
「わかった。ごめんなさい」自分の意に反した言葉を口にしなければならないことに涙が止まらなかった。
「いいのよ。わかってくれて嬉しいわ」
「……」
「すぐに家を建てるわよ。あたしの気が変わらなければ、今月中にも新昭和住宅と契約を交わすつもり。夢のマイホームよ。もうアパート暮らしじゃなくなるの。お母さん、車はBMWかベンツを考えているけど。麗子は、どっちがいいと思う?」
「どっちでもいい。ママが好きな方を選んで」
「わかった。そうする」母親の機嫌が直ってくれて安堵。「お前は、いつでも素直でいい子だから好きよ。お母さん、絶対に麗子のことを悲しませたりしないから。それだけは約束する」
「……」ああ、意味がわからない。これが悲しませることじゃないなら、もし母親が本気で娘を悲しませようとしたら、一体何をしてくるんだろうか。それを考えると怖かった。
母親は再婚して姓が変わったが、あたしは篠原のままでいた。せめてもの抵抗だ。篠原麗子、この名前は好きだ。愛する人と結ばれるまでは変えたくない。
義父は頼みもしないのに色々なモノを買ってくれた。母親とは初婚で、いつか誰かと結婚するつもりで給料のほとんどを貯金をしていたらしい。そのお金を今、母親が自由に使っている。お洒落な洋風の家を建てさせ、そしてグリーンのベンツを買わせた。義父は古い軽自動車のままだ。
お父さんと呼んで欲しいのだろう、いつも義父は麗子の機嫌を伺っていた。無理、それは無理。パパとは呼べない。
何も買ってくれないでいいから、馴れ馴れしくしないで。そう、はっきり言いたかった。
新しい家に住み始めると、義父は母親にするのと同じ調子で麗子の身体にも触ってきた。嫌悪感。すぐに逃げた。でも笑っている。嫌がっているのが分からないみたい。鈍感な男。やめてくれるように母親に言おうかと考えた。だけど母親は新築のマイホームと新車のメルセデス・ベンツを手にして、ものすごく嬉しそうだ。衣服、靴、アクセサリーが高価なモノに変わった。こんなに生き生きしている姿は見たことがない。言い出せなかった。
ああ、どうしよう。困った。
学校が終わって家に帰ってみると、まず目に入ったのは駐車場に停まっている義父の軽自動車だった。色褪せた赤いスズキのアルトだ。何で、こんな時間に家にいるの?
家はセキスイハウスで建てた新築で、親子三人で暮らすには十分な広さがあった。でも、あの男と二人だけで家に居るのはイヤ。何をされるか分かったもんじゃない。
「お母さん、再婚したいと考えている人がいるのよ。もちろん、麗子が気に入ってくれたらの話だけど」
そう言って、母親が国道沿いにあるデニーズで紹介してくれた男は、ハゲ頭の背が低い中年だった。
がっかり。なんで、こんな男が母親と? 何も言えない。挨拶すら口から出てこない。結婚って、男と女がエッチなことをする約束みたいなもんなんでしょう。あたしのママが布団に入って、こんな汚らしい中年男と……。ああ、イヤだ。気持ち悪い。
あたしが幼少の頃に別れた本当の父親は、写真で見る限りだけど、すっごく背が高くてハンサムな人だった。笑顔が優しそう。こんな素敵なパパと何で別れちゃったのか理解できない。会いたかった。一緒に歩いて友達に見せたい。
写真を目にする度に母親に、「どうして?」と訊いた。いつも決まった答えが返ってくる。「あんたは子供だから知らなくていいの」、だ。
きっと何か、子供には話せない、大変な理由が出来て、仕方なく離婚しなければならなくなったんだろう。でも二人は心の中で今でも愛し合っている。きっと、そうだ。だって、あたしのママとパハだもの。そう篠原麗子は、ずっと信じてきた。
母親から再婚したい相手がいると伝えられた時は、信じていたものが崩れていく思いだった。じゃあ、あたしのパパのことはどうするの? と、訴えたかった。
新しい父親を受け入れるのには強い抵抗があった。自分を納得させる為にも本当の父親に似た人であって欲しいと願った。
デニーズに遅れてやって来て、テーブルの向かいの母親の隣に腰を下ろした男を見て、この人を好きになるのは、どんなに努力しても無理だと直感的に思う。
ハゲ頭の中年男は、あたしの機嫌を取ろうと食事中よく喋った。学校のこと、将来のこと、友達のこと、興味もないくせに色々と訊いてくる。ああ、うざったい。つまらない冗談しか口にしない。今どき、そんなの子供にも受けないよ。大好きな和風ハンバーグが全然美味しくなかった。
馴れ馴れしくママの肩や手に触ることも気に入らない。もう、腹が立つ。見ていられない。辛いのは、それを母親が嫌がらないことだ。どんどんママが自分から遠ざかっていると感じた。
デニーズからの帰り、自動車に乗ってすぐに母親は訊いてきた。
中年のハゲはいない。二人だけだ。「どう? あの人。なかなかイイ人でしょう」
「……」え、どこ……がっ? 何も言えない。正直に言ったら、母親がどんな反応をするのか分からないし。
「あの人って見掛けは良くないけど優しいのよ。それに市役所に勤めているの」
「……」娘の沈黙を拒否反応と悟ってくれたらしい。市役所、そうなの。それが再婚の決め手らしい、と麗子は理解した。
「結婚したら家を建てるって約束してくれたのよ。車も外車にするって言ったわ。麗子も色々なモノを買ってもらえるわよ」
「……」いらない。何も欲しくない。アパートでいいから、ママと二人だけの生活を続けたい。
「どう、嬉しくない?」
「……」全然。モノを買ってくれなくていいから、あの人とは一緒に住みたくない。
娘の返事を待っている様子だ。でも何も言えなかった。間が空いて、次に口を開いた母親の口調は一変していた。「あんた、あの男のことをまだ想っているの?」
「……」そう。だって本当の父親だもの。頭から消し去るなんて無理。公園で楽しく遊んでくれたことを覚えてる。
「あの男は、あんたのことなんか何も気にしてないわよ」
「……」その言葉、麗子の胸に突き刺さる。そんなのウソだわ。
「だから会いに来ないのよ。娘のことを想っているなら、ちゃんと養育費とか払ってくれるはずでしょ」
「……」気分は奈落の底へ。悲しい。
「あんなダメな男はいないの。お金にはルーズで、女にもルーズだった。仕事は何をやっても中途半端で投げ出す始末だから。背が高くて見栄えはいいけど、それだけよ。無責任でだらしない男。お母さんが、あいつのお陰でどれだけ苦労--」
「わかった。もういい」もうパパの悪口を言わないで。お願いだから。「あの人と結婚していいから」そう言うしかなかった。
「そう?」
「……うん」目から溢れた涙が頬を伝わって落ちてくる。
(再婚したいと考えている人がいるのよ。もちろん、麗子が気に入ってくれたらの話だけど)あの言葉って何だったの。
「あんたの気持ちは分からないでもないのよ。あたしだって、あの人のことを心の底から好きとは言えないもの。理想の男性には程遠いわ。だけどね、現実を見なきゃダメよ。女手一つで、あたし達が二人で暮らしていくって本当に大変なんだから。この結婚は麗子の為を思って決断したとも言えるのよ。あんたも大人になれば、きっと分かる」
「わかった。ごめんなさい」自分の意に反した言葉を口にしなければならないことに涙が止まらなかった。
「いいのよ。わかってくれて嬉しいわ」
「……」
「すぐに家を建てるわよ。あたしの気が変わらなければ、今月中にも新昭和住宅と契約を交わすつもり。夢のマイホームよ。もうアパート暮らしじゃなくなるの。お母さん、車はBMWかベンツを考えているけど。麗子は、どっちがいいと思う?」
「どっちでもいい。ママが好きな方を選んで」
「わかった。そうする」母親の機嫌が直ってくれて安堵。「お前は、いつでも素直でいい子だから好きよ。お母さん、絶対に麗子のことを悲しませたりしないから。それだけは約束する」
「……」ああ、意味がわからない。これが悲しませることじゃないなら、もし母親が本気で娘を悲しませようとしたら、一体何をしてくるんだろうか。それを考えると怖かった。
母親は再婚して姓が変わったが、あたしは篠原のままでいた。せめてもの抵抗だ。篠原麗子、この名前は好きだ。愛する人と結ばれるまでは変えたくない。
義父は頼みもしないのに色々なモノを買ってくれた。母親とは初婚で、いつか誰かと結婚するつもりで給料のほとんどを貯金をしていたらしい。そのお金を今、母親が自由に使っている。お洒落な洋風の家を建てさせ、そしてグリーンのベンツを買わせた。義父は古い軽自動車のままだ。
お父さんと呼んで欲しいのだろう、いつも義父は麗子の機嫌を伺っていた。無理、それは無理。パパとは呼べない。
何も買ってくれないでいいから、馴れ馴れしくしないで。そう、はっきり言いたかった。
新しい家に住み始めると、義父は母親にするのと同じ調子で麗子の身体にも触ってきた。嫌悪感。すぐに逃げた。でも笑っている。嫌がっているのが分からないみたい。鈍感な男。やめてくれるように母親に言おうかと考えた。だけど母親は新築のマイホームと新車のメルセデス・ベンツを手にして、ものすごく嬉しそうだ。衣服、靴、アクセサリーが高価なモノに変わった。こんなに生き生きしている姿は見たことがない。言い出せなかった。
作品名:黒いチューリップ 05 作家名:城山晴彦