黒いチューリップ 04
「そりゃ、そうさ。アカデミー主演女優賞なんて獲れたら一気に仕事は増えて、ギャラも上がるからね」
「へえ」
「演技の上手な役者は沢山いるけど、なかなか世に出るのが難しくて大変なんだ。ほとんどがアルバイトをしながらの生活で、食べていくのが精一杯。華やかなのはトップに登り詰めた僅かな連中だけさ」
「厳しい世界だって聞くわ」
「多くが日の目を見ることなく終わっていく。当たり役に巡り合うことが出来るかどうかに掛かっているんだ。例えば『風と共に去りぬ』のビビアン・リー、『ローマの休日』のオードリー・ヘップバーン。それと『プリティ・ウーマン』のジュリア・ロバーツ、『ショーシャンクの空に』のモーガン・フリーマンとか」
「実力の他に運が必要ってことね」
「その通り」
「あたしなんかが、やって行けるかしら」
「自分に半信半疑じゃ難しいだろうな。絶対になるっていう強い信念を持っていないと。その強い信念が幸運を引き寄せるんだから」
「……」ああ、自信がなくなる。
「どうした」
「不安だわ」
「五十嵐さんらしくないぜ」
「そうかしら」
「だって学校では、自信に満ちていて我が道を行くって感じだぜ」
「あんな田舎の中学校だからよ」
「あはは。麻布のオーディション会場だって、いつかそう思える日が来るさ」
「……」そんなふうに考えたことはなかった。でも言えてるかも。
「演技の勉強をしたりして、少しづつ自信をつけるといい」
「そうする」
「五十嵐さんが成功することを信じているよ」
「ありがとう」少し勇気が湧いてきた。
「五十嵐さんの美しさは、どこへ行っても通用するさ」
「そう言ってくれると凄く嬉しい。あたし、芸能界は無理だと諦めて、AV女優になろうかと考えたこともあったんだ」
ああ、言っちゃった。この転校生の前だと無意識に自分を曝け出しちゃう。
「どうして」
「だって、……お金が稼げそうだったから」
「いや、今は難しいみたいだぜ」
「そうなの」
「うん。AV女優になりたいっていう女の子が沢山いるらしい。当然だけど、反比例してギャラは安くなっていく。よっぽど綺麗でスタイルも良くて、その子ひとりでアダルト・ビデオが企画できるなら話は別だろうけど」
「へえ」この子って何でも詳しいみたい。すごい。
「やめた方がいいよ。寿命は短くて、すぐに飽きられていく。失うモノの方が多い。一度でも出演したら、元AV女優という肩書きが一生ついてくる。リタイアした後で、もし誰かに美しさを褒められても自慢できないぜ。子供だって諦めるしかない」
「え。どうして、子供が産めなくなるの?」
「母親が元AV女優だと知ったら悲しむさ」
「黙っていれば……」
「無理だな」
「なんで?」
「世の中には、おせっかいな連中が沢山いるぜ。どっかからか調べてきて子供に母親の素性を教えるさ。証拠として、しっかり裸の写真を持ってきてな。きっと学校中に知れ渡るようにするだろう。そうなったら引っ越すしかない。奴らは他人の家庭が崩壊していくのを見て楽しむのさ。それって悲しくないか?」
「言う通りだわ」
「でも……」
「でも、何?」
「ポルノ映画に出演したけど成功した俳優も何人かいるんだ」
「えっ。誰、それ」
「キャメロン・ディアス」
「えっ、あの『メリーに首ったけ』に出た女優?」
「そうだ。彼女が十九歳の時だった」
「信じられない。嘘みたい」
「ほかにはマリリン・モンローとかヘレン・ミレンとか、女優じゃないけど歌手のマドンナだって」
「へえ」
「ポルノ映画じゃないけど、『猿の惑星』でチャールストン・ヘストンの相手役を演じた女優は、あの役をもらう為にプロデューサーと寝たらしい。だけど台詞はもらえなかったんだ」
「そうだ、あの女優は映画の中で一言も喋らなかったわ」
「ほかにも『猿の惑星』にはエピソードがあるんだ」
「教えて」
「五十嵐さん、となりに座ってもいいかな」
「え」どういう意味? となりに座るって、こんなに近くに居るのに?
「その方が話し易いんだ」
そう言うなり、彼は椅子を持って真横に腰を下ろす。「じゃあ、いいよ」香月の承諾は後からで全く意味がなかった。
「ありがとう。実は、あの映画の猿は日本人がモデルかもしれないんだ」
「えっ」
「原作を書いたフランス人の作者は、第二次世界大戦の時に日本軍の捕虜にされて、フランス領インドシナで収容所生活を強いられたらしい」
「へえ。それで、あの物語のアイデアを思いついたの?」
「そうみたいだぜ」
「まあ」
「じゃあ、五十嵐さんが一番好きな映画を教えてよ」
「うーん、色々あるけど……やっぱり一番は『ショーシャンクの空に』だわ。あんなに感動した映画ってないもの」
「あれは素晴らしい作品だった。僕も大好きだ。スティーヴン・キングの原作よりも面白かった」
「え、小説も読んだの?」
「うん。最初に小説を読んでいたんだ。タイトルは確か〛刑務所のリタ・ヘイワース』っていう短編で、それほど面白いとは思わなかった。だから映画は二の足を踏んでしまったよ」
「へえ」なかなか知的な趣味を持つ少年なんだ、この子は。勉強が出来るのも頷けるかも。
「あの映画なんだけど……」
「うん。何?」
「ブラッド・ピットに出演をオファーしたけど、スケジュールの都合で叶わなかったんだって」
「へえ。じゃあ、あのアンディの役を、もしかしたらブラッド・ピットが演じたってこと? なんかイメージが浮かばないなあ。ティム・ロビンスで良かったよ」
「いや、違う。トミーの役さ」
「え、トミーって」
「アンディの妻を殺した奴を知っていると所長に話して、看守に銃で撃たれて殺された若い男だよ」
「あのイケメンの人?」
「そうだ」
「へえ」--あっ。いきなり彼の手が伸びてきて、香月の左足に触れた。そのまま動かない。ど、どうして。今度は承諾を求めてもこなかった。こ、困るんだけど。
「小説よりも面白い映画っていうのは滅多にないんだ」
「そ……そうなの」返事を口から搾り出す。左の太股に乗ったままの彼の手が気になって何も考えられない。どうして退けてくれないのか。こんな時って、どう行動すればいいの? ジワジワと彼の体温が手を通して、香月の下半身に伝わってくる。不安。
「例えばルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』だな」
「……」頷くだけで精一杯。アラン・ドロンの出世作だと知っていたが相槌すら打てない。言葉が口から出てこなかった。心臓はドキドキ。彼の手が静かに太股を撫で始めている。
「原作はパトリシア・ハイスミスっていう人が書いたんだけど面白くなかった。がっかりしたよ」
「ふう……ん」か、か、身体が……熱い。何なの、この感覚は。
「五十嵐さんは小説を読むの?」
「……」ううん。急いで首を振った。質問に対する返事というより
も、身体に起きている異変を振り払うかのように。で、でも……ダメ。効果がない。なんだか身体が溶けていくような……。
「それは残念だ」
「は、はあ」ため息が口が漏れる。
「『スリーパーズ』という映画を覚えているかい?」
「……」え、スリーパーズ? あたしのこと? 目が虚ろになっているかもしれないけど、眠いわけじゃないのよ。
作品名:黒いチューリップ 04 作家名:城山晴彦