黒いチューリップ 04
「おい、ちょっと待ってくれよ。何があったのか教えて--」
「何もないって言ってるでしょう。もう一緒に出掛けたくないの、ただそれだけよ。もう電話を切るから、さようなら」
「おい、待ってくれ」
長々と話したくないので電話を切った。その後は何度電話が鳴っても受話器は取らなかった。具合が悪いので誰とも話したくない、と母親に言って電話を取り次がないようにしてもらう。
翌日、学校へ行くと真っ先に佐久間渚が「香月、どうしちゃったの?」と真剣な表情で聞きに来た。順平から仲を取り持つように頼まれたのは間違いない。正直に答えた。最初から好きではなかったこと、一緒に出歩くことが耐え難い苦痛になっていることなど。
渚が、「じゃあ、どうしてあんなに沢山のモノを買わせたの?」と痛いところを突いてきた時は黙って聞き流して、すぐに自分の主張を繰り返した。趣味が合わない、タイプの男じゃないと言葉を並べて彼女から順平に、しばらくそっとしてあげた方がいいと言ってくれるように頼んだ。
それでも回数は減ったが、順平からの電話は続いた。ああ、しつこい。「何かプレゼントしたい」と言ってきても、はっきり「いらない」と拒否した。
よりを戻したいからだろうが、学校で声を掛けてきたり、帰り道に偶然を装って待ち伏せをされたりするのが、うざったくて仕方ない。どんどん嫌いになっていく。憎しみを覚えるほどだ。
芸能界へ入るのにもう一度オーディションを受けに行こうか、それとも男の人のアレを口に含むことを我慢してアダルト・ビデオに出演しようか、と悩む日々が続く。こんなこと、とても渚や道子には相談できなかった。彼らに秘密は守れない。とくに山田道子は信用ならない。香月は一人で思い苦しむ。そんな時だ、転校生の男子生徒に容姿を褒められたのは。
その響きに気持ちは揺らいだ。綺麗だ、可愛いとか言われることは少なくない。だけど全ての褒め言葉が、五十嵐香月と付き合いたいという下心から生じたものだ。でも転校生のは違った。あたしのために言ってくれたと感じた。そして『プリティ・ウーマン』という大好きな映画まで口に出して褒めてくれたのだ。この人だったら相談できるかもしれないと、すぐに思った。
「オーディションを受けに麻布まで行ったんだけど……あたし、怖くなって何もしないで帰ってきちゃったの」
誰にも言わなかった事実を二年B組の教室で、転校してきたばかりの男子生徒に告げてしまう。自分でもビックリ。あたし、どうしちゃったの。
「……」
だけど相手は無言。ああ、言うんじゃなかった。きっと情けない女だと見下しているに違いない。他人に弱みを握られるなんて絶対にイヤ。うそ、うそよ。それは冗談です。と今から否定しても遅くはない。こんな男子に思わず口を滑らせてしまった自分がバカだった。取り繕うつもりで口を開きかけたが--。
「分かるよ」
「え?」
「その気持ち、分かるな」
「……」意外な言葉が返ってきた。なんか凄く嬉しい。
「無理もないよ。初めてだったんだろう、オーディションなんて」
「そう」
「五十嵐さん」
「なに」
「一度や二度の挫折なんて当たり前さ。それを乗り越えて成長していくんだから」
「本当?」なんか凄い説得力。
「初めっから上手く行く人なんて、ごく限られた人間さ。色々と苦労を乗り越えて、また様々な経験を積んでこそ、実力が付いて人間的にも魅力が増していくのさ」
「へえ」
「たかが一度のオーディションで逃げ出しちゃったとしても、五十嵐さんの美貌を棒に振ることはないよ。もったいない。いつか有名になった時、それが過去のエピソードとして笑い話になるんじゃないのかな」
「……」うわあ、勇気づけられる。
「実は、僕の父親が洋画に関係する仕事に携わっているんだ」
「え、それ本当?」うわっ、なんてこと。
「ああ。色々とハリウッドの面白い話を聞かせて--」
「あ、待って」香月は、渚と道子が教室へ入ってくるのが見えて急いで相手の言葉を遮った。「ねえ、その話は後で詳しく教えてくれない。お願いだから」
その週末、五十嵐香月は転校生を家に呼んだ。異性を自分の部屋に入れるなんて初めてのことだ。自分を勇気づけて欲しい、再び挑戦する新たな力を得たいという気持ちが強かった。
父親は長期の出張中で、母親は必ず土曜日はオバアちゃんの所へ行く。自宅には香月と飼い犬のリボンが居るだけ。転校生に来てもらうには丁度いい。
金曜日の夕方、ルピタへ行ってスナック菓子とドリンクを用意した。二千円も使った。もてなしは最上級だ。不思議なのは帰ってくるなり、飼い犬のリボンが自分に向って唸り声を上げたことだ。何か機嫌でも悪いのだろうか。
二年前、近くの公園に捨てられていた子犬のリボンを家に連れて帰ったのは香月だ。すぐに懐いてくれた。今では香月の左脚を好んでマウンティングする。あまり気持ちのいいものではないけれど、あたしを愛している証拠なんだと思って我慢していた。ところが図書館へ行って犬の飼い方の本を読んで調べてみるとビックリ。犬は自分よりも下位の生き物に対してマウンティングすると書いてあったのだ。つまりリボンは保護してくれた恩人の香月を今では自分よりも下の地位として考えているらしい。一体、いつ立場が逆転したのよ。
それ以来、リボンがマウンティングしてくると、なんだか風俗嬢にされたみたいな気分になってイヤだった。
機嫌を直してもらおうと、お気に入りの左脚を出してマウンティングを促す。だけど見向きもしなかった。なにかヘン。土曜日、転校生が家の呼び鈴を鳴らしたところで、リボンの興奮は一層激しくなった。吼えて吼えて吼え捲くる。一階のリビングに閉じ込めるしかなかった。普段、お客さんが来ると好奇心いっぱいにして大はしゃぎでシッポを振るのに、この日は違った。
「なるほど、な」部屋に入って椅子に腰を下ろすと転校生は言った。
「え、どういうこと?」自分の部屋に異性と二人だけなんて、なんだか恥かしくてぎこちない。テーブルの上にスナック菓子とコカ・コーラを用意しながら場をもたしていた。彼の言葉に戸惑う。意味が分からない。
「うふ。五十嵐さんらしい家だし、この部屋にしても五十嵐さんそのものって感じだ」
「そう?」どうしよう。お礼を言うべきなのか。ただ悪い気はしなかった。「ねえ、ハリウッドの面白い話ってどんなの?」
「今年のアカデミー主演女優賞候補になったグイネス・パルトローは、『恋におちたシェークスピア』での演技が認められた結果なんだ」
「うん」
「あの役のオファーは最初、ウィノナ・ライダーに来たんだって。だけど当時一緒に住んでいたグイネス・パルトローが台本を見つけて読んで、プロデューサーに自分を売り込んで役を横取りしたらしいよ」
「本当? つまり友情よりも自分キャリアを優先したってこと」あんなに綺麗な人が、なかなか凄いことをする。「じゃあ、その後の二人の仲は?」
「もちろん決別さ」
「ウィノナ・ライダーって、『シザーハンズ』に出た人でしょう。すごくキュートな女優だと思った。『若草物語』では主演女優賞にノミネートされたわ」
「そうだ。もし役を横取りされなかったら、今度こそ賞を獲れたかもしれない」
「悔しかったでしょうね」
作品名:黒いチューリップ 04 作家名:城山晴彦