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黒いチューリップ 04

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 「疲れたから、もう寝るわ」
「え、夕飯は? 香月の大好きなスパゲッティにしたのよ」
「ありがとう。でも明日にするわ」
「そう」
 娘の沈んだ様子から空気を読み取って欲しかったが、そうは行かないのがうちの母親だ。そのあと何度も、それも毎日のように、うんざりするほどオーディションの話を持ち出す。「結果の知らせが遅くない? どうだったのかしら」とか。そもそも受けていないのだから、結果の知らせが届くわけがない。
 「さっき電話があったの。オーディションは受からなかったみたいだわ」次の日曜日、母親が買い物から帰って来たときに、そう言って嘘をついた。これで終わってほしい思いだった。
「え、どうして? 変じゃない、香月が落ちるなんて。どういう訳なのか、お母さんが電話してみようか」
「いい。いいから、お母さんは黙ってて。お願い」
「お前、そんなこと言ったって……。ここで引き下がっちゃダメなのよ。世の中、押しが大切っていう事もあるんだから」
「いいの、自分で何とかするから。ほかの芸能プロダクションを当たってみるわ」
「お前がそう言っても、お母さんは納得できない。失礼にもほどがある、うちの娘を落とすなんて。文句を言ってやらないと」
「止めて、お母さん。お願いだから」
「いい子で素直だから、お前は何を言われてもそのまま受け入れてしまう。だけど、それは時と場合によるの。理屈に合わないことをされて黙っていれば、相手を付け上がらせるだけなのよ。さあ、電話番号を教えて。お母さんがガツンと言ってやるから」
「違うの、お母さん。よく聞いて。まだ落ちたと決まったわけじゃないのよ」こう言うしか母親を止める方法はない。
「え、どういうこと?」
「最初の企画には通らなかったけど、他にも企画があるから、そっちで選考するから待ってほしい、って言うことだったの」
「……じゃあ、完全に落ちたわけじゃないのね」
「そ、そうなの」
「なあんだ。はっきり香月が説明しないから、お母さん、勘違いしちゃったじゃないの」
「御免なさい」
「でも良かった。まだ可能性はあるわけね」
「うん」
「期待できるわよ。香月ほど綺麗な子なんて滅多にいないんだからさ」
「……」
 この場は何とか収まった。だけど母親に協力を求めたことを強く後悔した。これからどうなるのか。
 芸能界には入れそうにない。だけど母親は頻りにオーディションの話を持ち出す。ノイローゼになりそうだった。これからの人生は長いのに目標がなくなった。何もする気が起きない。毎日だらだらと過ごしていくだけの自分。
 少し元気になったのは、日本代表がフランス・ワールドカップ出場を決めた時。最後は延長戦での岡野のゴールデン・ゴールだ。現実から逃避する思いでサッカー熱に酔った。
 初めて見た試合が四年前のドーハの悲劇で香月は小学三年生だった。その頃は父親が大好きで一緒にソファに座って観戦した。プレーを見ながら分かり易くルールや試合の運び方を説明してもらう。楽しかった。ロスタイムで同点にされた時は何が起きたのか理解できない。ただ父親の失望する姿から、すごく悪いことが起きたんだと感じた。その通りで、ワールドカップには出場できなかった。アメリカ大会では日本代表の代わりとして、サッカーの神様と言われるペレが推した、アスプリージャを擁するコロンビア代表を応援したが、初戦のルーマニアに続いて米国にも負けて,一次リーグ突破も叶わなかった。
 今では父親とは距離を置いて、ほとんど話をしない。
 「お父さんに、いつでもべったりなんだから」小学四年生の頃だったと思う、いきなり母親から言われた。そうしちゃ悪いみたいな言い方をされて戸惑う。
 「お父さんと仲良くしたらいけないの?」香月は訊いた。
「そんな事は言ってないわよ」と母親の答え。理解できない。
「だって、そんなふうな言い方だったじゃない」
「言ってません。お父さんと仲良くしたければ、すればいいのよ。あなたの勝手よ」突き放すような言葉を返されて、どうしていいのか香月は分からない。仕方なく父親とは口を利かないようにした。
 しばらくすると、「お父さんと仲良くしなさいよ。いい子なんだから、香月は」と母親。態度は一変して口調も優しい。一体、どうなっているのか。
「お父さんと何かあったの、お母さん?」
「何もないわよ」
 そう言われても香月は納得できない。しつこく何度も訊くと別の答えが返ってきた。「香月は子供だから知らなくていいの」
 やっぱり何かあったんだ。子供だから知らなくていいと言うけれど、お使いには「もうお姉ちゃんなんだから、このぐらいのお手伝いが出来なくてどうするの」と言われて行かされる。
 都合のいい時はお姉ちゃん扱いで、都合の悪い時は子供扱いらしい。
 母親に嫌われたくないし、両親の仲を窺いながらも面倒なので、いっそのこと香月は父親と距離を置くようになっていく。だからジョホールバルの試合は自分の部屋で一人で見た。
 日本代表がフランス大会の出場を決めたことで、君津南中学のサッカー部も注目を集めるようになった。特にストライカーの板垣順平は女子の憧れの的だ。回りが、キャー、キャー言うものだから香月も彼を意識するようになった。
 確かに背は高い。顔も悪くない。運動神経は抜群だ。女の子に人気があるのも頷ける。だけど……うむ、しかしだ、彼の家は中古車屋だった。新車のディーラーではない。それに彼の言動からは知性というものが感じられなかった。本を読んだり、洋楽を聴いたり、洋画を鑑賞したりするとは思えない。結論として自分のボーイ・フレンドには相応しくなかった。
 理想のタイプは痩せていて背が高く、ハンサムな男。運動が出来て知性に溢れている。そして青年実業家であったら最高。グリーンのベンツEクラスを所有していたりすれば尚うれしい。まあ、BMWの3シリーズでもいいけど。あ、でもベンツのCクラスは嫌い。だって小ベンツなんて名前で呼ばれてよばれいるから。
 当たり前だけど、この君津南中には一人も該当者はいなかった。将来そうなりそうな人物も見当たらない。こんな田舎じゃ無理なのか……。
 それでも友達に誘われてサッカーの試合には応援に行くようになる。何もする事がなかったし、少しでも外に出れば自分が元気になれるかなと思ったからだ。
 観戦していて不思議なことに何度も板垣順平と目が合う。その理由を教えてくれたのは佐久間渚だ。彼女はサッカー部のキャプテンである佐野隼人と仲がいい。
 「板垣くんたら、香月のことが好きらしいわよ」
 あ、そうなの。最初は、その程度の反応だった。言い寄ってくる大勢の男達の一人としてとしか意識できない。恋愛感情は持てなかった。
 だが、それが噂となり広まっていくと、板垣順平を憧れる多くの女子を失望させた。香月は気分がいい。あたしは、みんなと違う。優越感に浸れた。オーディションで味わった悔しさを八つ当たり出来るチャンスかもしれない。もっとガッカリさせてやりたくて、みんなが見ている前で板垣順平に馴れ馴れしく声を掛けたりした。効果はてきめんだ。
作品名:黒いチューリップ 04 作家名:城山晴彦