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黒いチューリップ 04

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 「お前の熱意は分からないでもない。だけど、かなり厳しい世界らしいよ。きっと辛い事は沢山あるよ。テレビに出られる人なんて僅かだろう。ほとんどが途中で挫折して辞めていくんだ。それでも挑戦してみたいのかい」
 散々否定的な意見を聞かされた。それでも香月が頷くと、ため息をつきながらも母親は出来る限り協力してくれると言ってくれた。
 その日のうちに杉浦書店へ行って、それに関係した雑誌を買う。エントリー用紙が付いていたので、それに必要事項を記入した。 
 週末は自宅のリビングで上半身と全身の写真を、父親のデジタル・カメラを使って撮った。気に入った服すべてで何度もシャッターを切る。朝から夕方まで、ほぼ一日を費やす。ベストの写真は、やはり青い水玉模様のワンピースだった。大人っぽくてセクシー。スタイルの良さも分かってもらえそうだ。二枚の写真をエントリー用紙に添えて港区の芸能プロダクションへ送った。
 返事は、すぐに来た。学校から帰ると、笑顔で母親が午前中に電話があったと教えてくれた。来月に行なわれるオーディションへ来てくれと言う。つまり書類選考に通過したということだ。すごく嬉しかった。『プリティ・ウーマン』のジュリア・ロバーツに近づいた思いだ。
 だが嬉しい思いはオーディションの日が近づくにつれて小さくなり、どんどん不安が大きくなる。会場は港区の事務所が入るビルの5階だった。青い水玉模様のワンピースで行くことにした。この服しかない。
 その前日だった。親戚に不幸があって、母親が一緒に行けそうにないと言い出す。じゃあ、一人で行くしかない。気持ちは沈んだ。
 君津駅から内房線に乗って蘇我駅まで行く。そこで京葉線に乗り換えた。次の電車が出発するまで時間があったので、駅ホームの自動販売機でシャキッと元気に行きたい思いでリアルゴールドを飲んだ。うまい。だけど喉の渇きを癒すには量が少なかった。香月は続けて自販機にコインを投入すると、次はドクター・ペッパーを選んだ。これも美味しかった。
 地元から遠ざかることで不安が増大していく。東京メトロの麻布十番駅に降りた時には、なんだか自分がアメリカのニューヨーク五番街に辿り着いたような思いだった。言葉は通じるかしら。
 何人かの人に道を聞いて会場を探し当てた。ガラス張りのエレガントな十二階建てのビルで、エレベーターに乗って5階へ上がる。降りた廊下には近くにデスクが置かれていて、ストレートの黒髪が綺麗な三十歳ぐらいの素敵な女性が立っていた。白いブラウスにグレーのタイトなスカート姿で、いかにも仕事が出来そうな感じだ。ベルトはブラックでゴールドの大きな丸いバックルが引き立っている。うわ、お洒落。そこが受付けだった。オーディションの順番を表す、番号札を渡された。二十五番だ。え、そんなにいるの? 
 受付けの横が待合室だと教えられて、そのままドアを引いて中へ入った。話し声が止む。一瞬の静寂。広さは学校の教室の半分ぐらいか。二十人近い人が四隅に備え付けられたソファに座っていた。全員の視線が五十嵐香月に集中。
 みんなが母親を連れて来ていた。友達同士で来ている子たちも何人かいる。やっばり、一人で来たのは香月だけらしい。
 視線に耐えられない。空いているスペースを見つけて、急いで腰を下ろした。バッグを開けて中から何か探す振りをして誰かと目が合うのを避けた。
 横目で周囲を観察する。若い綺麗な女の子たちばかりで、男の子は一人だけだ。痩せっぽちで、太った母親の横に大人しく座っていた。こんな女だらけのところに、よく居られる。どんな神経をしているのか。
 女の子たちの美しさは目を見張るほどだった。服のセンスは抜群で、これからステージに上がっても可笑しくない格好の子もいる。
タイトな服を着て身体の曲線を強調した超セクシーな子は特に目立った。悔しいけど凄く似合っていた。
 君津南中学校では美貌を誇れた五十嵐香月だったが、ここでは普通の女の子に成り下がってしまう。まるで二年B組の山田道子になった気分だ。最悪。どうしよう。
 斜め向かいには肩を寄せ合って座る女の子二人がいて、少し話しては何度もケラケラとよく笑う。こんなところで一体、何を話しているんだか。バカじゃないの。
 いきなりドアが開くと受付にいた女性が現れて、「二十番の人」と声を掛けた。長身でスタイルがいい、まるでモデルみたいな女の子が立ち上がって部屋から出て行く。あと五人もいるのか、と自分の順番が来るまでを数えてうんざりした。
 香月は、バッグの中から何も書いていないノートを取り出して読む振りをした。みんなの視線を集めたくないので、出来るだけ身体
を動かさない。
 時間が経つのが遅かった。まだかしら。少しでも早く、ここから立ち去り……。
 うっ、……しまった。ああ、どうして? オシッコがしたい。急に尿意を催す。蘇我駅のホームで二本も缶ジュースを飲んだのがいけなかった。このビルのエレベーターに乗り込む前にトイレに行くべきだった。後悔の念に駆られる。
 どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。  
 トイレに立てば部屋にいる全員の視線を集める。いやだ。恥かしい。我慢できるか、……いや、出来そうにない。
 斜め向かいに座る二人が、またケラケラと口を押さえて笑った。
むっ。く、悔しい。あたしの事を笑っているに違いなかった。千葉県の君津から出てきて、オーディション会場でオシッコがしたくて我慢している、あたしを笑っているのだ。
 もし、こんな場所でオシッコを漏らしたら……。大好きなチューリップ柄のパンティを穿いていた。濡らしたくない。
 もうダメだ、限界。五十嵐香月は意を決して立ち上がった。ケラケラ笑っていた二人が驚いて顔を上げる。唾を吐きかけてやりたいと思ったが、そうしないで早足で部屋から出て行く。受付けの女性が、どうしたのというような表情を見せたが、無視してエレベーターへ急いだ。案の定、その近くにトイレがあった。
 もう、あの部屋には戻りたくない。みんなが、あたしを軽蔑して敵視しているんだ。用を足しながら香月は、そう思った。トイレを出ると、そのままエレベーターで下まで降りた。外に出て麻布十番の駅まで歩く。足取りは重かった。
 君津へ戻る電車の中で気分は最悪だ。もうダメだ、あたしは。人生が終わった。『うん、そうらしいね』と、他の乗客たちも心の中で思っているみたいな気がした。
 「どうだった?」玄関の扉を開けて、家の中に入った途端に母親が訊く。
「わからない」用意していた言葉で答えた。それしか言いようがない。色々と訊きたがる母親に、「すごく疲れた」と言って自分の部屋へ逃げた。一人になりたかった。
 なのに母親は一緒に二階まで上がってくる。無下にも出来ない。「三十人ぐらい、女の子がいたわ」
「まあ、そんなに。それで何て訊かれたの」
「色々と。趣味とか、やっているスポーツとか」
「へえ。でも、香月が一番きれいだったでしょう?」
「……、さあ、わからない」親ばか、そのもの。世間知らずなんだから、まったく。
 まあ、そう言う自分も今日、芸能プロダクションの事務所へ足を運ぶまでは不安もあったが、かなりの自信も持っていた。それが全て打ち砕かれてしまった。
作品名:黒いチューリップ 04 作家名:城山晴彦