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黒いチューリップ 04

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 五十嵐香月は仲良し二人と別れて、自分の姿が彼らから見えなくなる場所まで来ると歩調を速めた。もう気兼ねすることはない。気分はウキウキ、ルンルンだった。スキップさえ踏みたい気持ちだ。今日これから受けるレッスンのことを考えると、身体が火照るのを抑えられなかった。
 親が雇った家庭教師というのはウソだ。両親が知らない家庭教師だった。今日、彼が家に来ることだって知らない。
 彼と親しくなったのは一ヶ月前で、場所は国道127号線沿いにあるレンタル・ビデオ店だ。その日、香月は『ディープ・インパクト』のVHSビデオを借りたくて来ていた。しかし新作コーナーの棚に並ぶケースすべてにレンタル中と書かれた青い札が掛けられていた。
 がっかり。
 あのモーガン・フリーマンが出演している新作だけに人気は高かった。期待はしていなかったけど……、もしラッキーだったらという思いだった。見落としはないかと、しばらく棚の前に佇む。ひょっとして店員がレンタル中の札を外しに来るかもしれない。
 準新作コーナーには『タイタニック』が並んでいて、ほとんどが借りられる状態になっていた。いい映画だった。あんなに感動した作品は他に『ショーシャンクの空に』しか思いつかない。
 夜は赤川次郎の『三毛猫ホームズ』でも読んで過ごすしかなさそうだ、と諦めて帰ろうとしたところで誰かに呼び止められた。
 「五十嵐さん」
「あ」振り返ると同じクラスの男子生徒だった。その手には店の青いビニール・バッグが握られていた。何を借りたんだろう、と咄嗟に思った。
「見たい映画はあったかい?」
「……」香月は首を横に振って答えた。この男子とは口を利いたことがない。背は高くないし、顔つきも子供っぽくて、好きなタイプじゃなかった。
「それは残念だ」
 香月は背を向けた。話したくない。言い寄ってくる多くの男たちにはうんざりしていた。たいしてカッコ良くもないくせに、付き合ってくれないかと訊いてくる。いい加減にしてよ、あんたとあたしで釣り合いが取れると思っているの? そうハッキリ言ってやりたい場面は何度もあった。たまたまレンタル・ビデオ店で会っただけなのに、ナンパのチャンスと考えている愚かな男にしか思えなかった。
 「今、『ディープ・インパクト』を借りたんだけど、良かったら先に見るかい? でも映画同好会の五十嵐さんのことだから、もう見ちゃってるかな」
 香月を再度、振り返らすのに十分な言葉だった。
「これなんだけど」と言って青いビニール・バッグを差し出す。
「……」え、どうしよう。
「もう見ちゃったかい?」
「ううん」今度は言葉で答えた。
「それなら月曜日に学校で返してくれたらいいよ」
「え、見ないの?」
「いいや、それはない。親から頼まれていた用事を思い出して、今日は時間がなさそうなんだ。月曜日の夜にでも見ようかなと思っている」
「本当?」
「ああ。五十嵐さんが先に見ればいい」
「ありがとう」うわ、ラッキー。
 五十嵐香月は嬉しい気持ちで自宅に帰れた。あいつ、なかなかいい奴かもしれない。でも、もし付き合ってくれなんて言ってきたら即座に拒否。自惚れるじゃないわよ、たかがビデオを又貸ししてくれたぐらいでさ。口を利くぐらいならいいけど、それ以上は絶対にダメ。
 月曜日の朝、登校すると佐久間渚と山田道子の二人が近くにいない時を選んで、借りたビデオを彼に返した。もし見られたら、『どうしたの? 何があったの?』と徹底的に事情を聞かれる。きっと『ビデオを借りただけよ』と正直に答えても二人は信じない。あたしと彼が付き合っているらしいと、勘ぐるに決まっていた。山田道子に限っては香月の秘密を知ったと得意になるかもしれなかった。     
 映画はモーガン・フリーマンの出番が少ないことが不満に感じたが、内容は悪くはなかった。
 「これ、ありがとう」
「どうだった、この映画?」
「面白かった」
「それは良かった。今夜が楽しみだな」
「うん。ありがとう」そう言って、自分の席に戻ろうとした時だった。思いがけない言葉を背中に浴びた。
「五十嵐さんは本当に綺麗だなあ」
「……」え、どう応えていいのか分からない。そこまでハッキリと同級生から外見に対する賛辞を伝えられたことはなかった。
「やっぱり将来は芸能界へ進むつもりなんだろう?」
「え……」芸能界……うん、そう思っていた。……だけど。「わからない」なんとか五十嵐香月は声を絞り出す。
「わからないって、どういう意味だい? それだけ見栄えがいいのに、まさか無駄にするつもりなのかい」
「……」げっ。ずっと香月が悩み続けている問題の核心を、いきなり突かれた。
「五十嵐さんが、『プリティ・ウーマン』みたいな映画のヒロインを演じて、大スターになるのは想像に難しくないよ」
 え、ちょっと待って。お願い、待って。その言葉よ、まさしくその言葉だわ、あたしが期待していたのは。母親の口からは聞かれなかった、紛れもない、その言葉。
 ずっと自分は、そうなりたいと願っていた。そうなるのに相応しい美しさが、自分にはあると思っていた。君津のDマーケットで、もしくはルピタで、芸能界に関係した人からスカウトされないかしらと期待していた。しかし声を掛けてくるのは、ダサい格好の不細工な男たちだけだった。
 「お姉ちゃん、ドライブしない?」図書館からルピタへ歩いて行く途中で声を掛けられたことがある。お気に入りの青い水玉のワンピース姿だった。振り向くとサングラスをした長髪の男が黒いインプレッサを超スローで運転していた。明らかに自分で自分を凄く格好いい男と錯覚している超バカ者。もう、最悪。冗談じゃない。この服で、そんな暴走族みたいな車の助手席に座ると思ってんの? 家にあるのがフォルクス・ワーゲンの白いゴルフEなの。品のない自動車はお断り。
 おしゃれな格好をして出歩いても、それに反応して群がってくるのは田舎臭い阿呆連中だけなのが悔しかった。
誰にも言わなかったが芸能界への憧れは幼い頃からだ。最近は女優の中山エミリを強く意識していた。すごく可愛くて綺麗だ。彼女が写真週刊誌フライデーに、西麻布での路上キスをスクープされた記事を見たときは驚いた。なかなかやるな、と思った。女優たるもの常に注目を集めるために、話題を提供し続けなければならない。さしあたり自分だったら、と考えてみた。体育館の裏でキスを見つかったり……いや、ダメだ。男子の喧嘩じゃあるまいし、あそこはナメクジが多くてロマンチックじゃない。なら、保健室だったらどうだろう。西麻布には負けるが、ベッドは置いてあるし、みんなの想像をかき立てるには学校の中では最高の場所かもしれない。だけど……、どこにもキスするに相応しい相手がいなかった。ここは田舎すぎる。
このままではダメだ。この君津で、このまま埋もれて一生が終わってしまいそう。たぶん袖ヶ浦か天羽の高校を卒業して、ちっぽけな地元の建設会社の事務員になるのが関の山だろう。イヤだ、そんな人生。
 中学二年に上がって危機感を抱いた五十嵐香月は決断する。もはや自ら行動に出るしかない。母親に相談して芸能界に進みたいことを初めて伝えた。
作品名:黒いチューリップ 04 作家名:城山晴彦