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黒いチューリップ 03

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 奴が振り向く。「……」放心状態だ。口は開いているが言葉が出てこない。よく見ると唇が震えていた。この前とは逆だ、オレが喋る番だな。
 「なあ。明日、いくら学校に持ってくればいいんだっけか? あっはは」ついでに滅多に人に見せない秋山聡史様の笑顔を拝ませてやった。
 この後は二度と関口貴久の姿を見ることはなかった。祖父がいる九州へと引っ越してしまった。
 ああ、でも火事は最高だった。あの燃え方、あの熱気、あの家が崩壊していく様、観衆の期待と興奮、すべてが素晴らしかった。またやりたい。やっぱり次は佐野隼人の家しかない。この君津からクソ野郎を追い出したい。九州でも、どこでもいい。佐久間渚の前から消えてくれ。あの女はオレのモノなんだ。その証拠に下着のサイズがぴったり一緒だろう。いずれオレたちは恋人同士になるんだ。
 それにしてもだ、気に入らないのは彼女が五十嵐香月と山田道子の二人と仲良しだっていう事実だ。ぜんぜん佐久間渚に相応しくない。
 五十嵐香月なんていう女は最も嫌いなタイプだ。お高くとまりやがって、お前は何様のつもりだ。いつだってオレのことを無視しやがる。いつか家が燃えても知らねえぞ。この女の性格の悪さが渚に伝染しないか不安で仕方ない。
 山田道子を一言で表すとすれば、それは『普通』という言葉しか見当たらない。美人であるわけではなく、また可愛いという形容詞は相応しくない。まあ、ブスでもなかった。全く印象のない女。記憶に残らない女。その他大勢の中の一人。居なくなっても誰もにも気づかれない女。究極の『普通』だ。
 どんなに高価な服を身につけても、安っぽい着こなししか出来ない女。いつも野暮ったい雰囲気を漂わせている。似合うのは、しまむらのバーゲン品かDマートのワゴン・セールで買った服だけだろう。
 もし誰かから『山田道子って、どんな女?』と訊かれたら、もちろん、『普通な女』としか答えられない。『それじゃあ、よく分からない』と言われたところで出てくる答えが、『足の臭そうな女』だった。実際に嗅いだわけではないが、そんな感じがした。
 憧れの佐久間渚が山田道子と一緒にいると、なんだか果汁100パーセントの美味しいオレンジ・ジュースに、不注意にも水道の水が注がれて、どんどん味が薄くなっていくみたいで嫌だった。
 交換日記をする相手に佐野隼人を選んだのも気に入らない。サッカー部のキャプテンだからか? それがどうした? 佐久間渚を本気で好きなのはオレだけなのに。何で、どうして、それが分からない?
 いずれ恋人同士になった時に教えてやろう。渚のブラジャーとパンティを身につけたオレの姿を見せてやるんだ。『キミのことが大
好きだから、キミの下着が欲しかった』という言葉を添えて。一目でサイズがピッタリなのは分かるだろう。秋山聡史こそ運命の人だと気づく瞬間だ。きっと渚は目に涙を浮かべて感動するはずだ。こんなにも自分を愛してくれた人がいたんだと。
 そこで、もう少し佐久間渚の下着をコレクションしたかった。三枚くらいじゃあ本気で好きだったと証明するには不十分に思えた。
 だけど彼女の家では、洗濯物を盗られないように警戒している様子が窺えるようになった。干しても数時間で部屋の中に入れてしまう。これでは盗みようがなかった。ただ眺めているしかない。向こうの気が緩むのを待つしかなかった。もどかしい日々が続く中、いきなり赤いチューリップ柄の下着のペアが目に飛び込んできた。
 えっ、何だ。うわっ、すげえ。一目で欲しくなる。あれを絶対にコレクションに入れたい。
 その下着を盗むことだけに秋山聡史は集中した。ほかのモノには目もくれない。隙を見つけて盗む。それ以外にない。しかしチャンスは訪れない。分かったことは滅多に渚は、その下着を着用しないということだ。だから洗濯する回数も少ない。タンスに仕舞い込んでいるらしい。洗っても外で干すのは一時間以内に限られていた。盗られないように細心の注意が払われているのだ。これじゃあ、手も足も出なかった。
 ミッション・インポッシブル、つまり不可能に近い作戦だ。これが成功したらトム・クルーズ主演で映画化されても、ぜんぜん不思議じゃない。もしかしたら永久に手に入らないかもしれなかった。その可能性は強い。諦めるべきなのか。でも忘れられそうになかった。そう考えると、より一層欲しくなっていく。あのチューリップ柄のブラジャーとパンティが手に入るなら何でもしてやろう、そんな心境だった。
 どうしよう、あいつに相談するか? いいや、それは最後の手段だ。本当に信用できる人間なのか、まだ分からない。出来ることなら自分の力でなんとかしたかった。
 週末のある日、いつものように遠くから双眼鏡で佐久間渚の家を観察していて気づく。他にも誰かが同じように彼女の家を双眼鏡を使って見ていたのだ。そいつは大胆にも路上で自転車に跨ったままの格好だった。
 一体、誰だ? 「あっ、……あいつだ」まさか。信じられない。何で、どうして? 
 あっ、やばい。と思った瞬間、もう手遅れ。突然そいつが双眼鏡を持ったまま回転を始めたのだ。聡史の方向を通り過ぎてから、不自然に動きが止まって少し戻った。畜生、見つかったらしい。双眼鏡を通して目が合った状態だ。二人とも動けない。聡史の全身から汗が噴出す。秘密を知られてしまった思いだ。どうしよう。ブラジャーをしているところを関口貴久に見つかった時よりも動揺している。動けない。呼吸すら満足に出来なかった。緊張して何も聞こえない。苦しい。双眼鏡を持つ両手が痛い。
 あ、あ……助かった。 
 幸いにも、そいつが先に行動を起こしてくれた。双眼鏡を下ろすと、何もなかったように自転車で走り去って行く。姿が見えなくなると、その場に聡史は腰を落とした。深呼吸。それを何度も繰り返す。疲れた。すべての体力を使い切った気分だった。もう今日は帰ろう、と立ち上がったところで、佐久間渚の家の物干さおにチューリップ柄の下着がペアでぶら下がっているのを目にする。ちっ、マジかよ。こんな時に限って……。ダメだ。そんな気力は残っていない。行動に出ればドジを踏むに決まっている。渚の家族に見つかれば取り返しのつかない事態を招く。間違いなく両親は下着を盗もうとした男と娘の交際を快くは思わないだろう。仕方ない。聡史は泣く泣く帰路についた。
 家に帰って考えたのは、あいつのことだ。これからどうなる?
これからどうしよう。秘密を知られたからには、家に火をつけて君津から追放してやるしかないのか。関口貴久の時みたいに金を要求してくるだろうか。だけど今回は前と違って自分も奴の秘密を知ったということだ。どう向こうが出てくるのか待つことにした方がいい。こっからは何も言わないと決めた。
 「秋山くん」月曜日の昼休み時間、教室に生徒の数が少ない時を見計らって奴は小声で話しかけてきた。「驚いたな、キミも佐久間渚に夢中だったのか」
「……」オレは否定も肯定もしない。
「あんなに可愛い子は他にいないぜ」
「……」ああ、その通り。
「キミもチューリップ柄の下着を狙っているのか?」
「……」えっ、マジかよ。こいつも渚のブラジャーとパンティに興味を持っていたらしい。やばいな。
作品名:黒いチューリップ 03 作家名:城山晴彦