黒いチューリップ 03
佐久間渚の隣りに座って授業を受けながら、『オレ、今日はキミのブラジャーとパンティを身につけているんだぜ』と、心の中で何度も繰り返した。最高の一日だった。ときどきこうして学校に来ようと決めた。ところが、だ。
B組にはゴロツキというか、居ない方が良かったと思えるバカ連中がいる。山崎涼太と関口貴久、それに相馬太郎と前田良文の四人だ。教室でバカ騒ぎを起こす。くだらない冗談を言って笑わせようとするが全く受けない。最近やったパフォーマンスは、『二年B組でAV女優として成功しそうな女子ランキング』だった。バカらしい。大人しくしているなら許せるが、四人が集まって騒ぐから迷惑は甚だしい。だから無視してきた。しかしそうできない事態になった。
非常に不愉快なことだが秋山聡史と相馬太郎は背丈が似ていた。髪形も同じようで、何度が間違われたことがあった。それが、たまたま佐久間渚の下着を身につけて登校した日に起きてしまう。
聡史が廊下を歩いていた時だった、後ろから関口貴久に抱きつかれた。仲間の相馬太郎が目の前にいると勘違いしたらしい。くすぐってやろうとしたのだろう、奴の汚い手が聡史の学生服の中へと侵入した。
やばいっ、と思った時にはもう遅い。廊下に倒れ込むだけで逃れる隙もなかった。「やめろっ」聡は怒鳴った。それでもバカは人違いだと分からない。奴の手は背中を伝わってブラジャーのホックに辿り着く。違和感を覚えたのに違いない、それが何なのか確かめるように奴の指先が動く。そして静止。すっと手が引っ込められた。
関口貴久は体を離して、くすぐろうとした男子生徒が誰なのか確認するように聡史を見た。その顔に驚いた表情が浮かぶ。やっと人違いだと分かったのか。そして何も言わずに立ち去った。
どうする? 授業中ずっと秋山聡史は今後の対策を考え続けた。関口のバカはオレがブラジャーをしていたことに気づいたはずだ。だけど、その場でみんなに言いふらさなかった。奴らしくもない。何事もなかったことにして忘れてくれるのか。いや、それは無いと思う。すぐに聡史はトイレに駆け込んで、着ていたブラジャーを脱いだ。これで後から言いふらされても、そんなことはないと否定できる。黙っていろと自分から言うのもやめた。あの時はブラジャーをしていましたと認めてしまうようなものじゃないか。そんなバカじゃないぜ、オレは。
「おい、秋山。話がある」
やっぱりだ。下校しようと教室から出て行くところで、関口貴久に呼び止められた。大人しく廊下の隅まで付いていった。近くに他の生徒はいない。二人だけだ。奴は切り出した。「お前、ブラジャーをしてただろう?」
「……」聡史は否定も肯定もしない。
「ブラジャーをしてたな? お前」
「……」言い方を変えても同じだ。バカと話すつもりはない。何を企んでいるのか知りたいから来ただけだ。
「まあ、いいさ。このことは、お前の為に黙っててやろうと思う」
「……」で、その代わりに何を要求する気だ、このバカが。
「それでだ、今週中に三万円を持って来い。そしたら永久に忘れてやる」
「……」そんなこと信じられるか、このバカ野郎。
「分かったか」
「……」
「おい、何とか言え」
「……」
「今週中に三万円を持って来ないと、クラスのみんなにバラすことになるからな。いいな」何も言ってこないのに不安を感じたのか、口調は荒くなった。
「……」聡史は沈黙を貫き通す。頷きもしない。そして踵を返して廊下を階段の方向へと歩き出した。
「忘れんなよ、秋山」
関口貴久の最後の言葉は背中に浴びた。ふん、三万円だと、このクソ野郎。ふざけんな。持って来たら永久に忘れてやるだと? バカ野郎、そんな言葉をオレが信じるか。上手く行ったら何度でも金を要求してくるに決まってら。よくもオレから金をふんだくろうなんて考えられたな。その代償は高くつくぞ。お前の家が燃えるんだからな。犯罪だろうが関係ない。お前の家に火をつけて恐怖を味あわせてやろうじゃないか。
佐野隼人の家に放火する計画をそのまま関口貴久の家に変更してやった。恐喝を受けた日の二日後、三万円を持って来いと言われた期限の一日前。その夜に計画を実行に移した。初めての放火だ。
家の三箇所に灯油を撒いてライターで火をつけた。ボヤで終わらせない為だ。上手く行けば火が火を呼んで一気に家を炎で包む。これは本を読んで知った。
火をつけた後、聡史は急いで現場を離れた。あまりの明るさにたじろぐ。やばい。これでは簡単に見つかってしまう。近くに停めた自転車まで走り、急いで跨った。ペダルを踏み始めて間もなくだ、けたたましいサイレンの音が夜空に響いた。ちょっと早過ぎるぞ。もしかしたら失敗だったかもしれない。チクショー。通り掛りを装いながら、ゆっくり現場に戻った。
あ、いい感じに燃えている。こりゃ、悪くないぜ。
すでに家の周りに人だかりが出来ていた。炎が上がって、遠くにいても熱が伝わってくる。聡史は自転車を電柱にワイヤー・ロックで固定すると、歩いて野次馬の中に入って最前列へと進む。特等席は当然の権利だろう。だって火をつけたのは、このオレ様なんだから。
あれ、余計なことをしやがって。
近所の人たちだろう。バケツに水を汲んで一生懸命に火を消そうとしていた。バカ野郎、せっかくの全焼モードを台無しにするんじゃねえ。負けるなよ、火。
しかし反面、慌てふためく大人たちを見て愉快に感じた。自分が放った火によって町内に大混乱をもたらしたのだ。オレは全能の神か。
「すっげえ火事だな」
「こんなの初めてだ」
「一気に燃え上がったぜ」
人だかりのあちこちで賞賛の声が上がる。気分がいい。『凄いでしょう。オレがやりました。初めてだったけど、なかなか上手く行ったと思います。みなさん、どうぞ楽しんで下さい』人だかりの前に出て、そう挨拶したいくらいだ。きっと拍手が沸き起こるに違いなかった。
サイレンの音と共に消防車が着いた。防火服を着た消防士が素早く降りてきて、「危険ですから退いてください」と言いながら野次馬連中を強引に後ろへ下がらせる。そして何人かで黄色いテープ張っていく。ここから前へ入るなということか。ちょっと遅れてパトカーも到着。数人の警察官とツナギ服を着た男たちが降りてきた。記念撮影でもするのか、大きなカメラを持った奴もいた。
『おい、大人たち。いいか、この火事の演出者はオレなんだぞ。退けとは失礼じゃないか』そう言いたいところを我慢して秋山聡史は指示に従う。
と、その時だ。場所を移動する動きの中で自分と同じ中学生ぐらいの奴の姿を認めた。誰だろう? 見覚えが--あっ、やっぱり関口の野郎じゃないか。ラッキー。
そっと近づく。ふっ、思わず噴出しそうになった。バカはポケモンの黄色い寝巻き姿だった。袖のところが少し黒く焦げてる。中学にもなって、アニメ・キャラに執着か。サンダルは片方だけ、それも大人のサイズだ。大事そうに猿の縫いぐるみを抱えてる。まだガキか、お前は。寝癖か、それとも燃えたからか、髪の毛はクシャクシャ。まるでホームレスみたいじゃないか。辛うじて火事から逃げてきたって感じがありありだった。笑いを堪えて後ろから声を掛けた。「おい、関口」
作品名:黒いチューリップ 03 作家名:城山晴彦