黒いチューリップ 03
好きだ、大好きだ。仲良くなりたい。でも、どうすればいいのか分からない。
土曜日、日曜日はもちろん、普段の日でも時々は彼女の家の周りを自転車で走った。遠くから家の様子を双眼鏡で観察もする。公園があって、そこが高台で絶好の場所になっていた。家から出てきた彼女の写真を撮ったりした。もはや佐久間渚が趣味と言ってもいいくらいになっていく。カメラは鶴岡政勝が新しいのを買ったので、古いのを安く譲ってもらう。
なんとかして彼女に近づきたい。そう思い詰めてアイデアが浮かぶ。そうだ、自転車にパンクの細工をしよう。
気に食わない板垣順平に仕掛けて上手くいった。いつもオレを馬鹿にしやがる。鶴岡も試合のことで、奴には頭にきていたらしい。二人で野郎の自転車に穴を開けて下校途中に転倒させた。怪我をして次の試合には出られなかった。自転車は壊れて徒歩での通学になった。いい気味だ。死んでもよかったのに。
その週の土曜日に佐久間渚が赤い自転車に乗るのをずっと外で待ち続けた。今にも雨が降り出しそうな曇りの日で、そんなに期待はしていなかった。家の玄関に注意を払いながら、する事と言えばマイルドセブンを吸うだけだ。でも長く待った甲斐はあった。出掛けてくれたのは午後三時過ぎで、秋山聡史は気づかれないように後を付けた。行き先はルピタだった。渚が駐輪スペースに自転車を停めて店内に入って行くのを確認してから行動開始。聡史は隣に自分の自転車を停めると、しゃがんで横にある彼女の後輪タイヤに針を刺した。
板垣の場合は前輪をパンクをさせてハンドルを利かなくさせた。佐久間渚には怪我をさせたくない。後輪なら大事に至ることはないはずだ。
穴には小さくカットした黒いガムテープを貼り付けて、すぐに空気が抜けないように細工する。仕事が完了すると、その場から離れた。物陰に隠れて佐久間渚が店から出てくるのを待つ。買い物を終えた彼女が自転車に乗って家に帰るのを、距離を保ちながら追いかけた。
渚がパンクに気づいて自転車から降りるのに五分と掛からなかった。作戦大成功。すぐにも助けに行きたい気持ちを秋山聡史は抑えて、三分してから偶然を装いながら憧れの佐久間渚に近づく。
「あっ、秋山くん」
「どうしたの?」自転車を降りて聡史は訊いた。
「パンクしちゃったみたいなの。どうしよう、困ったわ。早く帰らないとアイスクリームが溶けちゃう」
「見せてみな。直せるかもしれない」
「え、本当?」
「うん」
赤い自転車の後輪を調べる振りをしながら貼り付けた黒いガムテープを探す。穴の位置をバルブからの距離で頭に入れる。佐久間渚の目の前でタイヤレバー、ゴムのり、パッチ、紙やすり、携帯の空気入れ、それら全てを路上に広げた。
「いつも修理の道具を持って自転車に乗っているの?」
「そうだよ。いつパンクするか分からないから」ふん、そんなの嘘だよ。今日だけ特別さ。
「へえ。どう? 直せそう」
「やってみないと分からないな」直せるに決まってら。穴の位置は分かっているし。だって針を刺したのは、このオレなんだから。
「お願い」
「ああ」ひゃーっ。憧れの佐久間渚から頼られているって最高の気分。もう死んでもいいぜ。
タイヤレバーを使ってチューブを取り出すと、はっきりと穴の位置が見えた。これなら簡単だ、空気を入れて探す必要もない。その部分を紙やすりで擦り始めた。すると突然--。
「秋山くんて凄い」佐久間渚から賞賛の声。
「……」口が痙攣して返事が出来ない。無表情を装いながら穴の部分にゴムのりを薄く塗りつけたが、気持ちはマッハのスピードで大気園外へと飛び上がった。
ひょっとして次に『あたしの家で一緒にアイスクリームを食べない?』なんて言葉が聞こえてきたりして。聡史の期待は膨らむ。
彼女の家に上がれば、きっと両親は大切な娘の窮地を救ったクラスメイトを大歓迎してくれるはずだ。VIP待遇は間違いない。母親は『良かったら夕飯を食べてって』と言ってくるだろう。ご馳走を振る舞ってもらった後は彼女の部屋でビデオ鑑賞といこうか。
『ローマの休日』なんかを二人でソファに並んで見たら感激だ。グレゴリー・ペックの姿がオレとダブって彼女の目に見えてきたりして。そしたら帰り際に玄関の外に出たところで、両親に聞かれないように声をひそめて『秋山くん、あたしと付き合ってくれない』と交際を迫られちゃうかも。答えは決まっている、『いいよ。オレでよかったら』だ。だけど、ここは男として何も言わずにキスで応じるべきじゃないのか。映画のシーンみたいにな。きっと佐久間渚は驚く。秋山くんで見かけによらず大胆で男らしいと。
聡史は自分の想像に酔った。初めてのキスだけど、上手く出来るんだろうか。すごく不安だ。ああ、でも楽しい。ずっとこうしていたかった。でも手早くパンクを直してカッコいいところを見せないと。チューブをタイヤの中に戻して後輪に空気を入れると、言いたくない言葉を口にした。「直ったよ」
「うわー。ありがとう、秋山くん。助かった」
「うん」さあ、アイスクリームのお誘いをお願いします。
「本当にありがとう。あたし、悪いけど急いでいるんだ。買ったアイスクリームが溶けちゃう。だから早く家に帰らないと。また月曜日に会おうね。じゃあ、さようなら。ありがとう、秋山くん」そう言い残して佐久間渚は走り去った。お誘いはない。振り返りもしなかった。ちぇっ。
すっげえ、がっかり。
一人になった聡史は路上に散らばったパンク修理の道具を見つめるだけだ。集めてケースに入れる気にならない。このまま捨てて帰ってしまおうか。
宇宙まで舞い上がっていた気持ちは、イチローのバットにジャストミートされたかの様に地球に逆戻り、そのまま地面に叩きつけられた。天国から奈落の底。今の、あの幸せに満ちた気分は何だったの? あの期待に満ちた想像は何だった? ああ、虚しい。
額に雨粒が当たった。雨が降り始めて、やっと体が動く。道具を拾い集めて自転車に跨った。本降りになりそうな気配だ。走りながら色々と考えた。一緒にいられて楽しかった。さて、これからどうしよう。どうにかして自分を好きになってほしい。ペダルを強く踏んでスピードを上げると少しづつ前向きな気持ちになれた。
よし、分かった。パンク修理だけでは足りないのだ。何かもっと凄いことで彼女に強い印象を与えないとダメだ。すると思いつくのは火事から彼女を救い出す場面だった。
秋山聡史の趣味にもう一つ、火遊びというのがあった。小学三年の時に、父親がゴキブリをティッシュで捕まえると、「聡史、面白いモノを見せてやろう」と言って、それに火をつけたのだ。丸めたティッシュが燃え上がると、焼き殺されるゴキブリのキィーという呻き声が中から聞こえた。見ていて異常な興奮を覚えた。メラメラとティッシュが燃えていく様にも我を忘れた。
自分でもやってみたい。それからはライターを使って色々なモノを燃やした。紙、木材、衣服、ブラスチック等だ。何度かボヤ騒ぎを起こして、その度に酷く叱られた。父親は何かあると皮のベルトで叩いて言う事を聞かせようとする。でも止めなかった。隠れて続けた。こんな楽しいこと止められるもんか。
作品名:黒いチューリップ 03 作家名:城山晴彦