黒いチューリップ 01
「いいえ、しません」どうしてだ。なんで、そんな質問を次から次へとしてくるのか……。「あの老人、あっ、いや、少年は、どうしました?」一番、気掛かりなことを訊いた。
「……」みんなの顔が困惑している。
「あの少年は、どこにいるんです?」繰り返す。
「少年、て誰のことだ?」
「誰って、……耳を怪我した少年です」
「そんな奴はいないぜ」
「いや、そんなことは--」
「俺たちの他には誰もいない。お前は頭を打って錯覚しているんだ」
「いえ、頭なんか--」
「覚えていないのか? お前は屋根から落ちたんだ」
「え?」
「足を滑らせて屋根から落ちたんだよ、お前は」
「……」それで体が痛いのか。少し納得する。
「気を失っていたからな。それで頭が混乱しているんだろう。どうだ、医者に行かなくても大丈夫そうか?」
「は、はい……、大丈夫です」もし医者へ行けば面倒な事になる。金も掛かる。後で嫌味を言われるに決まってる。
「よし。お前は少し休んでいていい。動けるようになったら呼べ」
「わかりました」
男は一人になりたかった。混乱している頭の中を整理したい。屋根から落ちたという記憶はなかった。でも仲間は、自分が屋根から落ちたと口を揃える。そして少年の姿は見当たらなかった。さっぱり分からない。夢だったのだろうか。確かに老人の話は突拍子も無いものだったが。『鏡を探し出して破壊しろ』、また、『双子の子供が産まれてくる』とか……。
男は身体を恐る恐る動かしてみた。うっ。痛みは走るが、さっきよりは良くなっている。打撲だけで骨折はしてないようだ。軽傷で助かった。『休んでいていい』と言われて休んでいられるほど甘い会社じゃなかった。なんとか立ち上がれた。少しでも早く仕事に戻らないと。作業服に付着した土を払った。その手を無意識に口元に運んで唇を拭う。濡れているみたいな不快感があったからだ。戦慄が走った。戻した手に赤い血がついていた。頬、口元、口の中と切り傷を探してみたが、どこにもない。自分の血液ではなかった。もしかして……。うっ。舌で唇に触れてみると、痺れるような苦い味がした。やっぱりだ、あの老人の血だ。間違いない。
うわっ。
驚いて首を竦めた。真後ろでカラスが死の恐怖に怯えるような声で鳴いたのだ。
03
それ以後、男は老人の存在を日増しに強く感じるようになっていく。聞かされた話を信じたわけではなかったが、すべての事が都合よく回り出す。早く辞めたいと思いながら勤めていた会社では、ベテランの従業員が家の事情や病気、喧嘩などを理由に次々と辞めていった。おのずと親方は男を頼るしかなくなる。どんどん仕事を覚えさせて任せていく。一人前になるのに時間は掛からなかった。それなりに給料は上がり、専務という役職まで得た。そして婿養子として迎えられて親方の一人娘と結婚する。ハワイへの新婚旅行中だった、帰国する前日の早朝に親戚からシェラトン・ワイキキの部屋に国際電話が掛かってきた。親方夫婦が運転するベンツが東名高速で起きた多重衝突事故に巻き込まれたという知らせだ。自動車は飲酒運転をしていた大型トラックの下敷きになって大破。二人とも即死だった。男の肩書きは専務から代表取締役に変わった。
ある日のこと、木更津にあるスーパーで従業員数人を連れて買い物をしていると、三年前に別れた女に出くわした。車椅子に乗る男と一緒だった。向こうも動きを止めたから、こっちに気づいたのは間違いない。でも、すぐに女は視線を逸らした。手にしていた洗剤を商品棚に返すと足早に通り過ぎて行く。慌てて車椅子の男が追いかける。驚いたことに女は、すっかり若さを失っていた。初々しかった色気は影も形もない。タイトなジーンズを好んで穿いて腰から太股のラインを強調していたのに、その日は身体の線が見えないジャージ姿だった。背中まで伸びた自慢のストレート・ヘアも普通のショート・ボブに変わっていた。連れて歩きたいと思わせる女ではなくなっていた。捨てられて悔しかった思いを長く引き摺っていたが、それが一変に消えてなくなる。帰りに駐車場で、また顔を合わす。車を停めた場所が近かったのだ。女は車椅子の男が助手席に座るのに手を貸しながら、もどかしいのか「もう、早くしてったら」と辛辣な言葉を吐いた。そして急いで運転席に座ると、逃げるように色褪せた赤い軽自動車で立ち去った。それを男は義父の保険金で購入した白いメルセデス・ベンツ230Eのウインドウから見ていた。女がターンしてスーパーの駐車場から出て行くとき、一瞬だが目が合ったような気がした。
この時ほど老人の存在を強く意識したことはなかった。男は約束を果たす為に子作りに励んだ。妻が妊娠すると医者に超音波検査を急がせた。腹部と経膣の両方で子供が双子だと分かると、課せられた役目に気持ちが高ぶった。とうとう出番が回ってきた。産まれてきた子供にオレが『血の洗礼』という大切な儀式を行うのだ。
その犠牲は大きい。精神の錯乱、または心神喪失を主張しても認められる可能性は低いだろう。殺人だから、まず執行猶予は期待できない。十年以上の懲役刑を食らうことになりそうだ。
でも男に、それを老人への報いとして行うという気持ちは少しもなかった。確かに老人に会わなければ社長という地位につくことはなかったに違いない。メルセデス・ベンツという高級外車のハンドルを握ることも考えられない。こき使われ続けて惨めな人生を送っていたはずだ。だから感謝はしている。しかしそれが大きな代償を払う理由ではなかった。男は老人の魂を世に送り出す手助けが出来ることに大きな喜びを感じていた。
忌々しい鏡によって老人は棺の中に閉じ込められたらしい。それが取り除かれた今、再び蘇ろうとしている。楽しみだ。出来ることなら男は鏡を探し出して永遠に葬り去りたかった。そうすれば老人が恐れるモノは存在しなくなる。
産婦人科の新生児室で行う行為を考える時、決まって二つの鳥類の生態を思い起こす。イヌワシとカッコウだ。イヌワシは卵を二つ産むが孵化する日をずらす工夫をしている。最初に孵ったヒナは遅れて孵ったヒナの頭をクチバシで突いて殺す。母親は見て見ぬ振りだ。つまり遅れて孵ったヒナは、最初に孵ったヒナが上手く育たなかった場合のスペアに過ぎない。厳しい自然界で確実に子孫を残していこうとする術らしい。
カッコウは托卵という習性を持つ。ホオジロ等の巣に卵を産み付けて育ててもらうのだ。カッコウのヒナは短期間で孵化するので、ホオジロの卵やヒナを巣の外へと押し出して殺してしまう。我が子を殺されながらカッコウのヒナにエサを与え続けるホオジロ。これらの事はテレビの番組を見て知った。こんなに残虐で犯罪的行為が自然界に存在するとは驚きだった。だから忘れなかった。まさかテレビの番組を見たとき、いずれ自分が同じような行為をするとは夢にも思わなかった。
04
手放す方の息子に、やっと青いガウンを着せるのが終わった。三つの小さなボタンには手こずった。一息つく。額の汗を作業服の袖で拭った。ごめんよ。他人に育てさせる我が子に心の中で謝った。
作品名:黒いチューリップ 01 作家名:城山晴彦